第4話 将棋《シャトランジ》
風呂から出たあとは寝室でのんびり過ごしていた。
ギョクハンはひたすら矢を作っている。
ファルザードは借りてきた聖典を読んでいる。彼からすると異教の書物のはずだが、問いかけると、文章を読めれば何でもいいと答えた。どうやら書物を読むことが好きらしい。城にいた時はザイナブ所蔵の本を読み漁っていたと言う。ギョクハンにはわからない感覚だった。
ファルザードが急に何かを思い立って出ていく。用便かと思ったが、さほど間を置かず茶器と
「どうぞ」
「どうも」
二人で茶をすする。穏やかな時間だ。
こんな時間が続くのも、悪くない。
ファルザードが茶を飲みながら読書を再開した。
その横顔を眺める。
高い鼻にぽってりした唇の紅顔の美少年である。やはり美少女にも見える。
ギョクハンは、ザイナブは何のためにファルザードを連れていくよう指示したのだろう、と考えた。
もう足手まといだとは思っていない。だが、ファルザードに戦闘能力がなく、危険な局面になった時ギョクハン一人で戦わなければならない、という事実はいかんともしがたい。
戦闘だけではない。騎馬民族の出で軍人のギョクハンのほうが圧倒的に速く、ファルザードに合わせての旅程は少しゆっくりしている。
いくらギョクハンがずぼらだからといっても、ギョクハン一人に手紙を持たせて馬を飛ばすように言ったら、もっと早くヒザーナについていたと思う。
歩く百万
ザイナブは本当にファルザードを路銀にするつもりだったのだろうか。
ハサンは死んだ。ファルザードを求める人間はいなくなった。用済み、ということだろうか。
そんなはずはない。彼女はハサンよりさらに寛大で慈悲深い人間だ。ましてファルザードは彼女には全幅の信頼を寄せているようだった。そのファルザードを裏切るような真似はしないだろう。
二人で行け、と言った。二人であることに何か意味があるのだろうか。
戸を叩く音がした。ギョクハンもファルザードも顔を上げて戸のほうを見た。
「はい、だぁれ?」
能天気な声がする。
「僕だよーん。ジーライル! 入っていーいー?」
ファルザードがギョクハンの顔を見た。ギョクハンが「俺はいいけど」と言うと、ファルザードは大きな声で「どうぞー!」と呼び掛けた。
戸を開け、ジーライルが入ってきた。
「おこんばんはぁ」
彼は両手で大小ふたつの箱を抱えていた。下にしている大きいほうは白く、上にのせている小さいほうは黒い。
部屋に入ってくると、床の真ん中に箱を置いた。
黒い箱は見事な象嵌細工だった。
黒い箱をのける。
下の白いものは箱ではなかった。長方形の分厚い板だった。上部には黒く細い溝が格子模様を作っている。ます目はいずれも正方形、縦八つの横八つだった。
ジーライルが黒い箱を開けた。中から、緑の石が十六個、赤い石が十六個出てきた。石はいずれも格子模様のます目に納まる大きさだ。
「
ギョクハンは「ない」と答えた。嘘だ。経験があると言ったらやらされそうな気がしたのだ。頭を使う盤上遊戯で、軍事教練の一環でやったことがあったが、ギョクハンは苦手だった。遊びでまでやりたいとは思わない。
ファルザードは元気よく「あるー!」と答えた。
「ご主人様のお姫様とよくやってたんだ。やりたい!」
「よーし、やろう。僕とファルちゃんで勝負だ」
ジーライルが盤の上に石――駒を並べ始める。ファルザードもその向かいに座ってジーライルの手伝いを始めた。
「まずは僕が後攻でいいよ。緑ね。ファルちゃんが赤」
「うん」
「こてんぱんにしちゃうのは気が引けるからね、ちょっと手加減しようか。僕は
「いいの? ぼっこぼこにしちゃうよ?」
「やれるもんならやってみろー」
二人が向かい合って、頭を下げ合った。
「よろしくお願いします」
ファルザードが赤くて丸く小さな駒をつまんだ。確か
駒は、
真ん中にいた赤い
ジーライルもすぐに緑の
端にいた
別の赤い
次にまた別の緑の
ギョクハンはその様子をぼんやり眺めていた。
ジーライルもファルザードも楽しそうだった。夢中で盤の上を見つめている。二人の手の動きに迷いはない。
赤い
緑の
最初に相手の駒を取ったのはジーライルだった。緑の
直後、赤い
ジーライルがまたたいた。
緑の
緑の別の
そこから先は赤い
もうひとつの緑の
ジーライルが自分の顎を撫でた。
緑の
その途端だった。
「
ファルザードが、緑の
「ふむ」
ジーライルが、人差し指で自分の鼻の頭を押す。
「……ふむ」
彼は「もう一回やろう」と提案した。
「今度は僕も全力でやるね」
ファルザードは心底楽しそうな笑顔で答えた。
「そうこなくっちゃー」
また、赤い駒と緑の駒を並べ始める。配置は先ほどの開始時点のものと同じだったが、緑の
「よろしくお願いします」
今度は赤い
ジーライルは無難に
赤い
緑の
ジーライルの表情がどんどん険しくなっていく。
ファルザードは変わらず楽しそうだ。その目はいつになく輝いていて生き生きとしている。
邪魔はしないでおこうと思い、ギョクハンはそっと
赤い
緑側は
攻める。
ギョクハンには、何が起こっているのか、わからなかった。
赤い
緑の
赤い
緑の
赤い
緑の
赤い
緑の
直後、赤い
「あっ」
ジーライルが呟いた。
その次の時、ファルザードの華奢な手は、赤い
緑の
緑の
もうひとつの赤い
「
ジーライルは完全に顔をしかめていた。ファルザードは可愛らしい笑顔だ。
「もう一回やる?」
そんなファルザードの問いかけに、ジーライルはしばらく答えなかった。間を置いて、ためて、ためて、ためて――
「――わかった」
彼は、大きく、息を吐いた。
「明日のお昼、君たちと、僕と、僕の出資者――アズィーズ様と、四人で食べよう」
ファルザードがきょとんとする。
「何がわかってそういう話になったの?」
「いや」
ジーライルは彼らしくなく真剣な表情で言った。
「試して悪かったね。やっぱり、ちゃんと二人ともアズィーズ様のところに連れていくよ」
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