第3話 公衆浴場《ハンマーム》にて 2

 ハサンは、誰よりも、ギョクハンに優しかったのだ。優しく、頭を撫でてくれた。優しく、肩を撫でてくれた。

 しかし、今思えば、あの近い距離感は何だったのだろう。

 言い知れぬ不快感が込み上げてくる。

 ハサンは何のために少年を買い揃えていたのだろう。何のために、何を基準に傭役軍人マムルークの少年を集めたのか。

 誰も、何も、言わなかった。黙っていただけで、何かはあったかもしれない。たまたまギョクハンはなかっただけかもしれない。


「嘘だろ……?」


 ファルザードが「いいよ嘘で」と呟く。


「ギョクが信じたくないなら信じなくていいよ。それくらいの自由はあるよ。ギョクが知らなかったらそれはギョクの世界では起こらなかったことなんだ。それでもいい。僕の世界では起こったことだった。けど、僕一人が黙って耐えて済むなら、それでもいいんだよ。僕は今日ここで何も話さなかったことにするよ」


 そして「亡くなったしね」と続ける。


「もうハサン様とお会いすることはない。僕はすごく気が楽になったけど……、僕を可愛がってくださる寛大なハサン様に感謝しなくてもよくなったんだと思うとほっとしたけど。でもギョクはハサン様がお好きだったならつらいよね。それに目の前で亡くなったんでしょう? 悲しかったよね。悔しかったよね」

「やめてくれ」

「うん、わかった。やめよう。ごめん、ぶち壊して」


 ファルザードの顔を見ることができなかった。ギョクハンもうつむいて拳を握り締めた。


 ギョクハンとファルザードは同じ城の中にいたはずなのにどうして面識がなかったのだろう。ハサンはファルザードをどこで飼っていたのだろう。

 ファルザードはハサンにとって何だったのだろう。

 何をもって、ファルザードは、自分を百万金貨ディナールだと言っているのか。百万金貨ディナールのアシュラフ猫か。

 発狂しそうだ。気持ちが悪い。


「でも、ザイナブ様は?」


 救いを求めて問いかけた。


「ザイナブ様は、お優しいだろう?」


 それは、ファルザードは素直に「うん」と肯定した。


「ザイナブ様は僕にとっても女神みたいな存在だよ。何度も何度も助けてくださった。何度も死んでやろうと思ったけど、ザイナブ様がいてくださったからもうちょっと生きようってがんばった。ザイナブ様のお役に立てれば――」


 泣きそうな声で「僕は本当に嬉しかったんだ」と言う。


「僕の汚れた体を拭いてくださった」


 ザイナブは知っていたのだ。自分の父親が年端も行かぬ少年に何を強要していたのか理解した上で、あの振る舞いだったのだ。


「だから僕は、ザイナブ様のためなら、また売られても構わない」


 身を引きちぎられている気分だった。

 ギョクハンの世界が、音を立てて崩れていく。


「ねえ、ギョクは?」


 ファルザードが明るい声で問いかけてくる。だがギョクハンは知っている。ファルザードは時々わざとそういう声を出すのだ。


「ギョクはどうしてハサン様の傭役軍人マムルークになったの?」

「俺はそんな重い理由はない」


 小さな声で答えた。


「俺のいなかではそれが当たり前だったんだ。子供の頃から馬と弓をやっていて、軍人に向いているから。カリーム人はトゥラン人を大量に傭役軍人マムルークとして仕入れてる。みんなずっとそういうものだと思ってた」


 誰も疑問を持たなかった。


「むしろ俺の親なんかは俺が高値で買われていくのをすごく喜んでた。帝国へ行けばいい俸禄ほうろくでそれなりの暮らしができるってわかってたからな」


 なつかしい、故郷の果てなき蒼穹、見渡す限りの地平線が頭の中に浮かぶ。その真ん中に建てられた幕家ユルトも忘れられない。


「それに弟がいっぱいいた」


 ギョクハンはそんな中で育った。


「トゥラン平原では、家を継ぐのは、末っ子なんだ。弟が生まれたら、兄貴は、出ていかなきゃいけない。たいていの親は、そういう息子が遠くで出世していい暮らしができるんなら、って思う。俺の家もそうだ。親父もお袋も笑顔で俺を送り出した」

「……そっか」

「実際言われていたとおりで、俺は帝国に来てから嫌な思いをしたことはない。そりゃ、訓練は厳しくてきついけど、死にたいとか思ったことは一回もない。帰りたいと思ったことはあるけど、一時的にいなかに帰って休んで、少ししたらまた働きにワルダに戻る、みたいな人生でいいと思ってた」


 蒸気が噴出口から噴き出した。部屋の中が暑い。汗をかく。


「それってさ……、お金があったらずっと草原にいられたんだ、とは、思わない?」


 ギョクハンは一瞬黙った。何と答えようか悩んだ。

 ファルザードが包み隠さず全部話してくれたのに自分が黙っているのは卑怯だろうかと思ったので、口を開いた。


「俺のいなかは、田舎なんだ」


 初めて、悔しい、と思った。


「街中のほうが……、便利なんだ」


 今の今まで、先輩たちの誰も、言わなかった。トゥラン人たちの間では当たり前のことだったからだ。


「何もない草原で暮らすのが、きつかった。嫌じゃなかった、今でも遊牧生活に戻りたいと思う時もある、けど……、一回、生活が保障されてて家畜が死んだ時の心配をしなくてもいい、でっかい市場があって何でもすぐに手に入る、万が一怪我や病気をしても給料の貯金で暮らせる――っていう暮らしを、すると。こっちのが、楽かな、って思っちまう」

「……そっか」


 二人とも、互いの顔を見なかった。


「そうだよね。ギョクがそのほうがいいって思うなら、それが正解なんだよ。ギョクくらい強かったら、軍人としてやっていけるんだし、天職かもしれない。ハサン様がいなくなっても、ザイナブ様がいらっしゃったらザイナブ様がギョクを相続するんだしさ。ザイナブ様の下で自分が得意なやり方で働くって思ったら、まあ、僕でもそのほうがいいと思うかもしれない」


 耐え切れなかった。


 ファルザードの手首をつかんだ。その手首はあまりにも細く、丸めるようにつかむとギョクハンの指は余った。少しでも手に込める力を間違えたら折れてしまいそうだった。


「俺、お前を信じる」


 ファルザードが振り向いた。大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど丸くなっていた。


「お前が言うこと、全部信じる。お前のこと、受け止める」


 ギョクハンは宣言した。


「これからは俺が守ってやる。だから、嫌な仕事は嫌って言え。ザイナブ様がそういうことをやらせるとは思わないけど、万が一誰かに何かやらされそうになった時は、絶対、俺を呼べ」


 黒真珠の瞳が、潤んでいく。

 やがて、ぽたり、と。透明なしずくが、つたい落ちた。


「ありがとう」


 世界が広がっていくのを感じた。この世の中には、まだまだ知らなければならないことがたくさんある。


 右手で手首をつかんだまま、左腕でファルザードを抱き締めた。ファルザードが声を上げて泣き出した。




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