第2話 公衆浴場《ハンマーム》にて 1
その日の夕方、ギョクハンはファルザードを
ギョクハンは楽しみにしていたので、ファルザードも喜ぶだろうと思った。
ところが、ファルザードは最初嫌がった。「僕はいいよ」の一点張りでなかなか動こうとしない。なぜそんなに意固地になるのかわからず、ギョクハンも意地を張って彼を強引に引きずってきてしまった。
脱衣所で服を脱ぎ、蒸し風呂の部屋に入ってから気づいた。
ファルザードが歩くたびに人々が振り向く。
失敗した。一緒にいる時間が長くなって彼の顔を見慣れてきたせいで彼が女の子に見えることを忘れていた。砂漠の盗賊も高値で売り払うと言っていたファルザードを裸にするというのには大きな意味があったのだ。
色白で、豊かな長い黒髪、無駄な肉のない腰、すらりと長い手足、大きな目、ひげの生えぬ顔の輪郭――浴場にいる男たちがさりげなくファルザードを眺めている。
ファルザードは自分がそういう意味で視線を集めてしまうことを知っていたのだろう。思い返せばシャジャラでも大きな
知らない男が、ファルザードが通過するのを狙って口笛を吹く。ファルザードが顔を真っ赤にして、知らないふりをして通り過ぎようとする。
やってしまった。
蒸気の噴出口から離れたところにある、体を冷ますための石の長椅子に座った。ファルザードもその隣に腰を下ろした。
「……ごめん」
「いや、逆に気を遣うからやめてよ」
「出るか?」
「やめてってば。僕はここにいるからギョクは好きにしなよ」
せめて洗い場に行くのはやめようと思った。ファルザードは洗い場の係員に洗われるのは嫌なのではないかと思うのだ。ここに一人で置いておくのも少し不安だ。
ファルザードが、長椅子の上で足を揃え、膝を抱える。その膝に顔を埋める。
彼のほうを見た。
長い黒髪の間から、白く細いうなじが見えた。
ギョクハンはつい顔を背けてしまった。
「早く大きくなりたいなあ……どうしたら声変わりしたり毛が生えたりするんだろう。まあ、僕がそんなことになったらみんながっかりすると思うけど……」
シャジャラでの夜のことを思い出してしまう。
「――なあ」
あえて正面を向いたまま問い掛けた。
「お前、いつからハサン様の酒汲み奴隷をやってるんだ?」
ファルザードは、顔こそ上げなかったが、素直な声ですぐ答えた。
「二年くらい前かなあ……十二歳になるちょっと前」
なぜ気がつかなかったのだろう。自分が軍隊という狭い世界の中で生きてきたことを痛感する。
思えば、ハサンが城の奥深くの私室で何をして過ごしていたのか、まったく知らない。昼間の軍事教練を見に来るハサンしか見ていないのだ。
ハサンとファルザードはどんな関係だったのだろうか。
「どういう経緯でハサン様に買われたのか、訊いてもいいか? どこで生まれて、いつ奴隷になったのか、とか」
ファルザードは、小さな声で「うん」と言ってから、語り始めた。
「僕はね、アシュラフ高原のもっと向こう、旧アシュラフ帝国領の北の果てにある大きな湖のほとりで生まれたんだ。その湖は塩水で、対岸が見えないほど大きくて、僕らは小さな海と呼んでた」
小さな海の噂は聞いたことがある。トゥラン平原からすると西の果てだ。ギョクハンの生まれ育った地域からは遠く離れたところで、ギョクハンは行ったことがなかった。
「僕は両親ともアシュラフ人だった。兄弟は僕を入れて四人、一人目の姉、兄、二人目の姉、僕が末っ子。父が拝火教の
拝火教とは、かつてこの大陸を支配したアシュラフ帝国で国教とされていたという、アシュラフ人の宗教だ。善の光の神と悪の闇の神が闘争を繰り返し、やがて闇の邪神が世界を支配する時代が来て、そのあと光の善神が復活して世界を救う、という壮大な世界観をもつ。
アシュラフ帝国が滅亡してカリーム人が覇権を握ると、カリーム人の宗教があっと言う間に世界を席巻して拝火教を押し退けた。
カリーム人の奉ずる一神教は、唯一絶対の神の他に神と等しい存在を認めていない。善なる光の神を中心に世界を救うために戦う神々を配置した多神教の拝火教は、古い邪教だ。
どんな出自の人間でも、帰依すればカリーム帝国の宮廷で官僚になる資格を得る。アシュラフ人のほとんどは改宗した。アシュラフ帝国の政治手腕を引き継いだ彼らは、迫害されるどころか、むしろ今やカリーム帝国の高官の地位を独占していると聞いた。
しかし、そんなご時世で
「僕が十歳の時、カリーム人たちがやって来た。小さな海の港町でそこそこの人口規模の町だったけど、街道沿いでもなかったし、カリーム人からしたら辺境だからね、それまでずっと見過ごされてきていたみたい。僕らはその時初めて自分たちが邪教の民だと聞かされて、改宗するか金を払うかを選べと言われた」
そこまではよくある話だ。アシュラフ人に限らず、カリーム帝国に生きる大半の人間が同じ経験をしているはずだ。
「まあ、大半の人たちはそこで改宗するって言ったよね、改宗さえすればカリーム人たちの下で働けるって知ってたし、事実すぐ解放されて普通の暮らしに戻っていったよ。でも、僕の父は
うすら寒くなって自分の腕を撫でた。
「三人の代わりにカリーム人たちが家に来て――」
そこで、ファルザードは顔を上げた。
「僕たち兄弟、四人とも顔すごい似てたんだよね」
その滑らかな頬に血の色が見られない。
「その時上の姉さんは僕の目の前で――察して」
「うん。言わなくていい」
「で、自殺した。カリーム人の妻になるくらいなら、って言って脱走して崖の上から小さな海に向かって飛び込んだんだ。しばらくして遺体は回収された。僕は溺死してぶよぶよになった姉さんの顔を見た。……生きていた時は町で一番の美人って言われていたのに」
細い指が、膝の上で組み合わされる。
「僕と下の姉さんは、顔がよくて、ちゃんと教育を受けていたから、ということで、すごい高値で売られたらしい。……下の姉さんがどこに売られたかは知らない。僕は競売の日を最後に一度も会っていない」
「それで……、ハサン様のところに?」
「いいや、しばらくあちこちいろんな人に買われて過ごしたよ」
思わず自分の手で口元を押さえた。
ファルザードは淡々と続けた。
「ハサン様と出会ったのはヒザーナの城下町。僕は病気になって、すごい安値で別の奴隷商人のところに転売された。痩せちゃって、動けなくて――」
今でもギョクハンよりひと回りもふた回りも細い。
「ハサン様は……、僕は最初、病気でタダ同然で取り引きされている僕を憐れんでくださったのかと思ったんだよね。ワルダ城に引き取られてからしばらくは優しかったし。僕専用の部屋を用意して、自力で動けるようになるまでお腹に優しい
繰り返した「でも」という声は、今までで一番苦しそうだ。
「アシュラフ人の男の子が欲しかったみたい」
ギョクハンはつい「そんなことないだろ」と声を荒げてしまった。
「ハサン様がお優しいからだ、お前が最初に思ったとおり、弱っているお前を憐れんで――」
「うーん、ごめん」
うつむいて、自分の足の指をつつきながら、小さな声で話す。
「そういう、理想、かな。なんか、ぶち壊したら嫌だから、ずっと、言わないほうがいいかな、って思ってた」
「冗談だろ、ハサン様ほどの人格者はそういないぞ」
「まあ、そうなのかもしれないよ。ハサン様は昼間はちゃんとした方だった。お酒も飲まなかったしね、敬虔で。でもお酒を飲まない人がなんで酒汲み奴隷を買うのかってちょっとあれじゃない?」
「それは……、酒以外にいろいろあるだろ。身の回りのお世話とか――」
「うん。だから、そうだよ。お世話。お仕事の合間に、口でしたりとか」
「やめろ」
ギョクハンは頭を抱えた。
「やめろよ……」
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