第4話 そんなサービスないです
砂の丘を大きく迂回して川を目指した。このあたりの川がどれくらいの深さなのかわからないが、遠い北の山の雪解け水で増水していて流れが速いのは確かだ。急がなければならない。
脈が早まる。胸の鼓動がうるさい。心臓が耳元に来たかのようだ。
ファルザードに万が一のことがあったらどうしよう。こんなことになるなら走れなどと言わなければよかった。
砂煙を巻き上げながら走った。
ほどなくして川辺にたどりついた。あたりには大小さまざまな岩が転がっていた。こんなところに頭を打ちつけていたらと思うとぞっとした。
「ファル……」
川の流れとは違う水音が聞こえてきた。音の方に顔を向けると、月光の中、白馬の姿を見つけた。器用に河の中を泳いでいる。水に濡れた白い毛並みが月光を弾いて輝いていた。
「セフィード!」
そう呼ぶと、白馬がギョクハンのほうを向いた。水を蹴り、岩を蹴り、川辺に近づいてきた。
白馬が大荷物を運んでいる。ファルザードだ。口でファルザードの服の背中をつかんで引きずってきている。
ギョクハンは黒馬からおりて水の中へ入っていった。水は身を切るように冷たかった。長時間浸かっていたら凍えてしまうだろう。
ファルザードは反応しない。
胸の奥まで冷える。
やがて手が届いた。
白馬からファルザードを受け取った。
濡れた黒髪が白い頬に張りついている。長い睫毛は閉ざされていてその瞳を見せない。
背後から両脇に腕を通し、抱え上げた。
冷たい。
なんとか川から引きずり出す。川辺の砂利の上にその身を横たわらせる。
「ファル、ファル!」
頬を叩いた。けれど目を開けない。
体が冷たい。
ギョクハンは息を止めた。
間に合わなかったのか。
「ファル……っ」
上半身を抱え起こした。
その時だ。
体が折れ曲がったのに反応してか、ファルザードが突然咳き込み始めた。
大量の水を吐き出した。
華奢な手がギョクハンの服の脇腹をつかんだ。
ギョクハンは大きく息を吐いた。
「ギョク」
荒い息の間から声が聞こえてきた。
ファルザードの冷え切った体を抱き締めた。
ファルザードもギョクハンに両手でしがみついた。
しばらく二人とも沈黙していた。川の水が流れる音だけが響いていた。
それにしても、ファルザードの体が冷たい。
「火、焚くか」
離れて、立ち上がった。ファルザードがこくりと小さく頷いたのが見えた。
「服、脱いで乾かしたほうがいいぞ。そのままだと冷える。風邪をひく」
「え、ギョクの目の前で脱ぐの?」
ギョクハンは眉間にしわを寄せた。呆れた。ここまで心配してあれこれ気を揉んでやったのがすべて馬鹿らしくなってしまった。
「お前、この期に及んでそういうこと言うか? 置いてくぞ」
ファルザードが頬を引きつらせて「そんな怒らないでよ」と言う。
「めちゃくちゃ怖いんですけど」
「いいから黙ってとっとと脱げよ」
背を向け、黒馬の背に積んでいた荷物の中から火打石を取る。川辺に生えている灌木の下を探る。乾燥した砂地に生える草は葉に多くの水分を含んでいて、そのままでは火がつかない。なんとか地面に落ちている枯葉を掻き集めた。
火打石を打ち鳴らした時だ。
ふと、脳裏をおかしな空想が駆け抜けていった。
脱ぎたくないのか。
ファルザードの美しい
最初、女の子かと思った。
女の子なのではないだろうか。
また心臓が破裂しそうになったが、先ほどの緊張とはまるで違う緊張だ。
もし女の子だったらどうしよう。
それでも気持ちを抑えきれなくて、おそるおそる、振り向いた。
自分の体から濡れた服を引き剥がしているファルザードを見た。
胸は薄く平らだ。華奢な腰に丸みはない。
男の子だ。
がっかりした。
「……なに?」
「いや、何でもない」
溜息をつきながら木切れに火をつけた。最初のうちは小さな火だったが、乾燥した木切れを重ね合わせていくと徐々に燃え広がった。ギョクハンが一生懸命掻き集めた木片を糧に少しずつ成長していく。
相手が男だと思うと、必死に掻き集めて火を用意してやったのも、労力がもったいなかった気がしてくる。
やがて立派な焚き火になった。
ギョクハンは焚き火のすぐそばに腰を下ろした。
ファルザードも下
炎にファルザードの姿が照らし出される。
その体は細く、少しでも強く力を込めたら折れてしまいそうだった。少年の肩はどことなく骨張っているが華奢だ。筋肉が足りない。
ひとつにくくられた黒髪の下のうなじが白い。あまり長時間眺めていると毒になる気がする。
目を逸らしたその時、ファルザードが口を開いた。
「あのさ、ギョク。ちょっと言いにくいんだけどさ」
か細い、小さな声で言う。
「怒らないで、聞いてくれる?」
「とりあえず言えよ。怒るかどうかは聞いてから判断する」
「あの……えっと……」
ファルザードが、おずおずと、象嵌細工の薄い箱を差し出した。ザイナブの手紙を入れている文箱だ。
嫌な予感がした。
震える手で、文箱を受け取った。濡れている。
ゆっくり、ふたを開けた。中身も、濡れている。
紙を手に取り、こわごわ開いた。そして火にかざした。
危うく火の中に落としてしまうところだった。
水に濡れて、墨の文字がにじみ、読めなくなっている。
「……おい……」
「ご……ごめん」
「いや……、待て、待てよ、大丈夫だろ、ひょっとしたらこの箱が高価なものでワルダの紋章みたいなものとか――」
「ううん、去年僕がハサン様のおつかいでワルダ城の城下町の市場で適当に買ったやつ」
目眩がした。
「その手紙以外に、僕らがザイナブ様の遣いで援軍を求めに来たことを証明するものって、何か、あったかな」
目の前が真っ暗になった。
「ごめんって……」
もはや怒る気力もなかった。ただただ息を吐き、濡れた紙を濡れた箱にそのまま戻すことしかできなかった。
「お前……、何しに来たんだ?」
ファルザードが縮こまる。
「本当に、足手まといなんだが。俺一人だったら、川にも落ちないだろうし、走って逃げきれただろうし、もう次の街についてたかもしれない。お前がいると、本当に、邪魔」
返事はなかった。膝を抱えて沈黙していた。
「とりあえず俺はヒザーナには行く。けどお前のことはもう知らない。次は助けないからな」
立ち上がり、黒馬の背から荷物を取ろうとした。布を敷いて布団にして、横になろうと思ったのだ。
とにかく疲れた。とてつもなく疲れた。休みたい。
「ギョク……、あの――」
か細い声が聞こえる。
「なんだよ」
「ちょっと、寒い」
「お前も布団巻けば?」
「……あの……、ないの」
振り向いた。
白馬の背に積んでいたはずの荷物がなくなっていた。川に落ちた時に振り落としてしまったのだろう。
ギョクハンは布の巻き物をファルザードに向かって投げつけた。そして自分は砂利の上に直接横たわった。
「最悪」
それきり、二人は夜が明けるまで口を利かなかった。
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