第3話 ギョクハン一人ががんばってもだめ
手綱から手を離した。
馬を走らせたまま後ろを見た。
弓を構えた。
矢をつがえる。
弦を引く。
ギョクハンが後ろに放った矢は、ファルザードの頭上を飛び越え、追ってきていたナハル兵のうちの一人の胸に刺さった。
胸に矢の生えた兵士が落馬する。砂ぼこりが舞う。体の落ちる音だけが聞こえる。砂漠の夜は静かだ。
黒馬は止まらない。揺れる馬上から弓を射るのはトゥラン人のお家芸だ。ましてナハル兵たちは一人ずつそれぞれ松明を片手にしている。あれでは的にしてくれと言っているようなものだ。
ギョクハンは後ろを向いたままもう一度弓を引き絞った。
放つ。
ナハル兵のまた別の一人を射落とす。
そこで一度手を止めた。
ナハル兵の数を数えた。馬で追ってくる人間は残り三人だ。
ファルザードは後を追いかけてきているがその速度は遅い。ナハル兵たちに追いつかれてしまいそうだ。
やるしかない。
手綱をつかんで引いた。黒馬が一瞬立ち止まり、すぐさま反転した。
「ファル、お前は走れ」
ナハル兵たちと向かい合いつつ、ファルザードに言う。
「このまま、まっすぐ東に走れ。イディグナ河に突き当たる、そこで待ってろ」
「ギョクはどうするの」
「残り三人を仕留める」
「危ないよ」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「知らないよ!」
「バカ、行けよ!」
敵兵のひづめの音がすぐ傍まで迫っている。
「走れセフィード!」
白馬が駆け出した。東と言ったのにやや南のほうへ逸れていった気がするが、あれこれ声をかけてはいられない。あとで砂地に残る足跡を追いかけるしかない。
「カラ、行くぞ」
手綱を引いた。黒馬が一瞬二本足で立ち上がった。すぐに四肢でしっかりと大地を踏み締める。
月明かりに砂塵が舞う。
空気が冴え渡っている。頬を裂くように流れてゆく風が心地よい。
戦える。
まずは背筋を伸ばして再度弓を引いた。今度は真正面からだ。絶対に外さない。月光に輝く敵兵の眼球を射抜いた。
残り二人との距離が縮まる。
二人が何かを話している。
そのうち片方が反転した。馬の鼻を西のほうへ向けた。ギョクハンに背を向けて走り去ろうとしている。
逃げられる。
ナハルに情報を持って帰られたら厄介なことになる。
弓を腰の弓袋にしまった。そして双刀を抜いた。刃は先ほど
向かってくる一人が剣を抜いた。
敵兵の剣とギョクハンの右手の刀がぶつかった。
ギョクハンが左手の刀を振り上げると、敵兵はあえてギョクハンの右側に跳び込むことで回避した。
間合いを詰められた。
とっさに右の手の中で柄を回して刀を逆手に持ち替えた。
今まさに背後へまわろうとしている敵兵の背中に突き立てようとした。
敵兵が振り向く。ギョクハンの刃を受ける。
なかなかの手練れだ。
真正面から相対する。
血を振り切って刀を左右に構える。相手も剣をまっすぐ構える。
二人とも
突撃だ。
決着は刹那のことだった。
敵兵の剣がギョクハンの右肩をかすめた。
ギョクハンはあえて斬らせてやってふところに跳び込んだ。
刀を揃えて突き立てた。敵兵の胸から背中へ二本の刀が生え揃った。
腕を振って勢いよく振り払った。砂煙を立てて敵兵の体が地に落ちた。
敵兵の馬が立ち止まる。動かなくなった主人に鼻面を寄せる。
「お前はナハルに帰れ」
馬には極力優しい声をかけた。馬はわかっているのかいないのか、一度ギョクハンの顔を見た。その場で立ち尽くす。哀れだが、構っている場合ではない。
松明の火が動いている。先ほど西へ走っていった最後の一人だ。ギョクハンは刀を鞘に納めるや否やその火を目指して駆け出した。
距離を詰める。
両手を離す。黒馬は走り続けている。
弓をつかむ。
矢筒から矢を引き抜く。
構える。
射る。
背に刺さった。
間を置かず二本目を射る。同じところに突き刺さる。
そして念のためにと三本目を射る。やはり今までのすぐ上に当たった。
兵士が砂に落ちた。砂煙が起こって一瞬だけその体が見えなくなったが、追いついて見てみると動かなくなっていた。目を見開き、血を吐いて沈黙している。同じくして地面に転がった松明の火が消え、顔が見えなくなる。
ギョクハンは一度大きく息を吸って吐いた。
ファルザードに追いつかなければならない。
嫌な予感がする。
自分は本当に全員倒せたのだろうか。最初に井戸の周りにいたのは何人だったのだろうか。
急がなければならない。
ファルザードが走っていったほうへ向かって駆けた。
夜の闇の中松明もない上風にさらわれて砂が動いていたので、足跡はわからなかった。失敗だ。次からはファルザードと別れないようにしようと思った。次などないほうがいいが、何事も用心するに越したことはない。
月がだいぶ傾いた。
いったいどこまで行ったのか、不安になってきた頃だ。
遠くに明かりが見えてきた。
松明の炎だ。
ギョクハンは舌打ちした。
ナハル兵だ。ナハル兵が一人いる。やはりあれが全員ではなかったのだ。
ギョクハンが近づいていることに気づいたらしく、ナハル兵が振り返った。
また弓を構えた。
ナハル兵は斜めに走った。想定外の角度だった。矢がはずれてしまった。
ナハル兵が大きく迂回して東のほうへ走る。
その先に白馬の尻が見えた。
ファルザードだ。
「待て! このガキ!」
ナハル兵が怒鳴る。
ファルザードが逃げる。
「ファル!」
名を呼ぶとファルザードが振り向こうとした。ギョクハンは慌てて「バカ、振り向くな!」と怒鳴るはめになった。
「そのまま走れ!」
言いながら二射目を構えた。
今度はナハル兵が振り向いた。
目を大きく見開いた。
その眉間を射抜いた。
ナハル兵はしばらくそのままの姿勢で硬直していたが、やがて倒れた。
ギョクハンはようやくひと息ついた。
しかし、そこで、だった。
急にファルザードと白馬の姿が消えた。
直後、ファルザードの絶叫が響いた。
大きな水音がした。
「なん――えっ?」
馬の速度を落として、ギョクハンはゆっくり歩み寄った。
血の気が引いた。
砂の丘の向こう側が崖のように切り立っていた。かなりの高さがある。
遠く下のほうに月光を弾いて輝く水があった。
川だ。
どうやら水が砂をえぐった結果できた崖だったらしい。
河に落ちたのか。
「……嘘だろ……」
つい、呆然としてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます