第4話 普段から整理整頓をしなさい
ギョクハンは絶句した。
ファルザードも驚いているようだった。ただでさえ大きな瞳を真ん丸にして、唖然とした顔でザイナブを見ている。
ザイナブが、左手に
ザイナブは、床に
軽く開けて二人に見せる。暗いのでわかりにくいが、書状が入っている。
「援軍を求める請願書です」
ザイナブが、笑みを消し、真剣な表情を作った。
「お前たちはこれを持って帝都ヒザーナに行きなさい。そして
「
ギョクハンは思わず声を漏らしてしまった。
ワルダは帝国領の一部だ。ハサンは
主君の主君にまみえる。
気の遠くなる話だ。一介の
ザイナブはなおも冷静な顔をしている。
「このたびの戦は
言われてからはっとした。
ナハルも、帝国領の一部だ。ムハッラムも、
それが勝手に周辺の領邦に攻め込んでいる。無断で領土を拡大しようとしているのである。
本来なら
「ですが、今ならばまだ間に合います。ワルダがナハル軍を引きつけている間に、
力強い声で断言する。
「私たちワルダの
彼女の期待に応えなければと思う。
自分たちは本来そうできるだけの力を持っているはずだ。
ムハッラムが無計画に領土を拡大して獲得した烏合の衆と、ハサンが心血を注いで育て上げた精鋭部隊は、違う。
「
ファルザードが、先ほどの生意気な口とは打って変わって、震える声で言った。
「
ザイナブがふと笑った。その笑みは二人を安心させようとしているかのようだった。
「そんなに恐ろしいことではありません。
長い睫毛を伏せる。
「そして、ムハッラムも。三人は同年代で、昔はとても親しかったのです。あなたたちが生まれる前の話ですが、ね」
ギョクハンは「なぜ」と問うた。
「それなら、どうして、ムハッラムは、ハサン様のワルダを攻めたり、
初めて、ザイナブの表情が曇った。
「私のせいなのです」
「ザイナブ様の?」
「サラーフ陛下は、陛下のご子息と私を結婚させたいのです。しかしムハッラムはてっきり私がムハッラムのもとに嫁ぐものだと思い込んでいたのですよ。ムハッラムは一方的に婚約を破棄されたものと思って、またサラーフ陛下に恥をかかされたと思って、
ファルザードが「そんなの」と怒りをにじませた声を出す。
「ハサン様のせいではありませんか……! ハサン様がもっと早く
ザイナブがうつむく。
「私が、ワルダ城を離れたくなかったのです。私が私を女
ファルザードもうつむいて沈黙した。
「私にとっては、父ハサンは、とても優しい親であり、偉大な庇護者だったのです」
それはギョクハンにとっても同じだ。ギョクハンにとってハサンは第二の父であり尊敬できる主君だった。
また、ザイナブも、ギョクハンにとっては、何にも替えがたい女主人であり、姉であり母であり、あこがれの存在でもある。
ザイナブが嫌だと言ったら嫌なのだ。
「承知しました」
ギョクハンは、頷いた。
「それを持って、
ファルザードが「でも」と呟くように言う。
「
ファルザードに言われてから気がついた。ギョクハンは文箱に伸ばしかけた手を止めた。
「お前は本当に賢い子ですね」
ザイナブが悲しい笑みを見せる。
「でも、こうなった以上は仕方がありません。ナハル軍にワルダ城を渡すわけにはいかないのです。ムハッラムはあなたたちを捕らえて串刺しにして並べるに違いないのですから」
「ご自分を犠牲にされるのですか」
ギョクハンが問うと、ザイナブは首を横に振った。
「もしかしたら
そして、彼女は「それにね」と笑った。
「私の婚約者の皇子様とやらは爽やかな美男なのだそうですよ。父と同世代のムハッラムよりは百万倍マシですね」
ファルザードもちょっとだけ笑った。
「納得してくれますか。承知してくれますか」
ギョクハンは改めて頷いた。
文箱へふたたび手を伸ばした。
ところがザイナブは文箱をファルザードに手渡した。
「……なんでですか」
「お前は少しがさつなところがありますからね。確実に物を届けたい時はこの子のほうがいいかと思って」
ギョクハンは衝撃を受けた。こんなことなら普段から宿舎の自分の部屋の寝台周りをきれいにしておくべきだった。ギョクハンは片づけというものが大の苦手で、掃除も洗濯も他人任せだったのだ。部屋の同僚たち、先輩
ファルザードは酒汲み奴隷だ。ハサンの身の回りの細やかな世話もこなしていたのだろう。行動が繊細で気が利くに違いない。
ファルザードの華奢な白い手が文箱を受け取った。
次に、ザイナブは足元から小袋を取った。袋の中で硬貨がこすれ合うじゃらじゃらという金属音が鳴った。
「三百
それも、ザイナブは、ファルザードに手渡した。ファルザードが妙に明るい声で「はーい」と素直な返事をした。
「え……あの……俺は……?」
「お前はファルの護衛ですよ。弓と刀があれば十分でしょう」
ギョクハンはあまりのことに沈黙した。ファルザードが鼻で笑った。
「そして、ファルには、この子も」
ザイナブが再度
ファルザードのすぐ背後に白馬がいた。カラ同様背が高く四肢の長いカリーム馬だが、真っ白な美しい毛並みをしている。
「この子をファルに与えます」
ファルザードの手が馬の頬を撫でた。
「綺麗な馬……」
「賢い子ですよ、お前によく似ています」
ザイナブが「少し気位が高いところも」と言って笑う。
「名前はセフィード。アシュラフ語で、白い色、という意味です」
ファルザードは頷いた。
「よろしくね、セフィード」
白馬が鼻を鳴らす。
「頼みましたよ、二人とも」
ザイナブの細い右手が、まず、ギョクハンの細かく編み込まれた長い三つ編みを撫でた。それから、ファルザードの柔らかくふわふわとした髪を撫でた。
「いいですか、くれぐれも、無茶はしないように。ワルダ城は一年はもちますからね。急がなくていいので、慌てず、怪我をせず、それから仲良く。帝都へ行くのですよ」
「……はーい」
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