第4話 普段から整理整頓をしなさい

 ギョクハンは絶句した。

 ファルザードも驚いているようだった。ただでさえ大きな瞳を真ん丸にして、唖然とした顔でザイナブを見ている。


 ザイナブが、左手に油灯ランプを持ったまま、右手で服の裾を膝の裏に入れるようにたたんで、その場にしゃがみ込んだ。


 油灯ランプの炎に、一本の柱が照らし出された。柱の根元に荷物が置かれている。分厚い布を巻いたものが二巻き、革袋の水筒が二個、おそらく硬貨が入っているのであろう重そうな布袋がひとつ、そして、象嵌ぞうがん細工の施された薄く平らな文箱がひとつだ。


 ザイナブは、床に油灯ランプを置くと、文箱を手に取った。ザイナブの両手に納まる程度の大きさである。

 軽く開けて二人に見せる。暗いのでわかりにくいが、書状が入っている。


「援軍を求める請願書です」


 ザイナブが、笑みを消し、真剣な表情を作った。


「お前たちはこれを持って帝都ヒザーナに行きなさい。そして皇帝スルタンサラーフ陛下にお会いしなさい」

皇帝スルタン……!」


 ギョクハンは思わず声を漏らしてしまった。


 ワルダは帝国領の一部だ。ハサンは皇帝スルタンからワルダの地を与えられて統治していた。つまり皇帝スルタンはハサンの主君に当たる。


 主君の主君にまみえる。


 気の遠くなる話だ。一介の傭役軍人マムルークに許されることではない。まして皇帝スルタンは百万と言われる民の庇護者で数億金貨ディナールを動かす力をもつという。


 ザイナブはなおも冷静な顔をしている。


「このたびの戦は皇帝スルタンの監督不届きが招いたことです」


 言われてからはっとした。


 ナハルも、帝国領の一部だ。ムハッラムも、皇帝スルタンからナハルの地を与えられ、皇帝スルタンの名のもとに領地経営を行っているはずなのだ。

 それが勝手に周辺の領邦に攻め込んでいる。無断で領土を拡大しようとしているのである。

 本来なら皇帝スルタンへの謀反だ。

 皇帝スルタンはムハッラムを抑えることができていない。皇帝スルタンの力が弱まっている。


「ですが、今ならばまだ間に合います。ワルダがナハル軍を引きつけている間に、皇帝スルタンの直属軍を動かすのです。ワルダと皇帝スルタンで挟み撃ちにすれば、あるいはムハッラムを討ち取ることができるかもしれません」


 力強い声で断言する。


「私たちワルダの傭役軍人マムルークは、最強なのですから」


 彼女の期待に応えなければと思う。

 自分たちは本来そうできるだけの力を持っているはずだ。

 ムハッラムが無計画に領土を拡大して獲得した烏合の衆と、ハサンが心血を注いで育て上げた精鋭部隊は、違う。


皇帝スルタンは自らの威光をふたたび知らしめるためにもワルダを助けなければならないでしょう。皇帝スルタンがワルダを見捨てるのならば、ワルダもまたナハル同様に皇帝スルタンから離脱することを宣言します」


 ファルザードが、先ほどの生意気な口とは打って変わって、震える声で言った。


皇帝スルタン恫喝どうかつするのですか」


 ザイナブがふと笑った。その笑みは二人を安心させようとしているかのようだった。


「そんなに恐ろしいことではありません。皇帝スルタンサラーフ陛下は父と帝都の学院マドラサの同窓だったのです。私も幼い頃はずいぶんと可愛がっていただきました。陛下には私の多少のわがままを聞いていただけます。きっと父のかたきも取ってくださいます」


 長い睫毛を伏せる。


「そして、ムハッラムも。三人は同年代で、昔はとても親しかったのです。あなたたちが生まれる前の話ですが、ね」


 ギョクハンは「なぜ」と問うた。


「それなら、どうして、ムハッラムは、ハサン様のワルダを攻めたり、皇帝スルタンのご威光を脅かしたりするんですか。ご友人だったのでは……?」


 初めて、ザイナブの表情が曇った。


「私のせいなのです」

「ザイナブ様の?」

「サラーフ陛下は、陛下のご子息と私を結婚させたいのです。しかしムハッラムはてっきり私がムハッラムのもとに嫁ぐものだと思い込んでいたのですよ。ムハッラムは一方的に婚約を破棄されたものと思って、またサラーフ陛下に恥をかかされたと思って、いきどおっているのです」


 ファルザードが「そんなの」と怒りをにじませた声を出す。


「ハサン様のせいではありませんか……! ハサン様がもっと早く皇帝スルタンとムハッラムと話をつけてザイナブ様の行き先を決めていたらこんなことにはならなかったんでしょう!?」


 ザイナブがうつむく。


「私が、ワルダ城を離れたくなかったのです。私が私を女国主アミールと呼んで慕ってくれる皆から離れたくなかったのですよ。父はそれを汲んで私を独身のまま自分のもとに留め置こうとしていました。私のとがです」


 ファルザードもうつむいて沈黙した。


「私にとっては、父ハサンは、とても優しい親であり、偉大な庇護者だったのです」


 それはギョクハンにとっても同じだ。ギョクハンにとってハサンは第二の父であり尊敬できる主君だった。


 また、ザイナブも、ギョクハンにとっては、何にも替えがたい女主人であり、姉であり母であり、あこがれの存在でもある。


 ザイナブが嫌だと言ったら嫌なのだ。

 皇帝スルタンの息子――というとつまり皇子――だかムハッラムだかどちらでもいいが、ザイナブがワルダにいたいと言うのなら、ギョクハンは二人を押し退けてワルダで彼女を守る。


「承知しました」


 ギョクハンは、頷いた。


「それを持って、皇帝スルタンに謁見します。ザイナブ様が皇帝スルタンからの援軍を求めていると皇帝スルタンに奏上します」


 ファルザードが「でも」と呟くように言う。


皇帝スルタンに救われるということは……、ザイナブ様は、皇子と結婚しなければならなくなるのでは……」


 ファルザードに言われてから気がついた。ギョクハンは文箱に伸ばしかけた手を止めた。


「お前は本当に賢い子ですね」


 ザイナブが悲しい笑みを見せる。


「でも、こうなった以上は仕方がありません。ナハル軍にワルダ城を渡すわけにはいかないのです。ムハッラムはあなたたちを捕らえて串刺しにして並べるに違いないのですから」

「ご自分を犠牲にされるのですか」


 ギョクハンが問うと、ザイナブは首を横に振った。


「もしかしたら皇帝スルタンは父ハサンの後継者として私をこの城に残してくださるかもしれません。その一縷いちるの望みに賭けましょう。今は私をちらつかせて皇帝スルタン直属軍を引き出すのが先です」


 そして、彼女は「それにね」と笑った。


「私の婚約者の皇子様とやらは爽やかな美男なのだそうですよ。父と同世代のムハッラムよりは百万倍マシですね」


 ファルザードもちょっとだけ笑った。


「納得してくれますか。承知してくれますか」


 ギョクハンは改めて頷いた。


 文箱へふたたび手を伸ばした。


 ところがザイナブは文箱をファルザードに手渡した。


「……なんでですか」

「お前は少しがさつなところがありますからね。確実に物を届けたい時はこの子のほうがいいかと思って」


 ギョクハンは衝撃を受けた。こんなことなら普段から宿舎の自分の部屋の寝台周りをきれいにしておくべきだった。ギョクハンは片づけというものが大の苦手で、掃除も洗濯も他人任せだったのだ。部屋の同僚たち、先輩傭役軍人マムルークたちも似たり寄ったりで、それが悪いことだとは思っていなかった。


 ファルザードは酒汲み奴隷だ。ハサンの身の回りの細やかな世話もこなしていたのだろう。行動が繊細で気が利くに違いない。


 ファルザードの華奢な白い手が文箱を受け取った。


 次に、ザイナブは足元から小袋を取った。袋の中で硬貨がこすれ合うじゃらじゃらという金属音が鳴った。


「三百金貨ディナールあります。路銀にしなさい」


 それも、ザイナブは、ファルザードに手渡した。ファルザードが妙に明るい声で「はーい」と素直な返事をした。


「え……あの……俺は……?」

「お前はファルの護衛ですよ。弓と刀があれば十分でしょう」


 ギョクハンはあまりのことに沈黙した。ファルザードが鼻で笑った。


「そして、ファルには、この子も」


 ザイナブが再度油灯ランプを手に取り、高く掲げて光をかざす。


 ファルザードのすぐ背後に白馬がいた。カラ同様背が高く四肢の長いカリーム馬だが、真っ白な美しい毛並みをしている。


「この子をファルに与えます」


 ファルザードの手が馬の頬を撫でた。


「綺麗な馬……」

「賢い子ですよ、お前によく似ています」


 ザイナブが「少し気位が高いところも」と言って笑う。


「名前はセフィード。アシュラフ語で、白い色、という意味です」


 ファルザードは頷いた。


「よろしくね、セフィード」


 白馬が鼻を鳴らす。


「頼みましたよ、二人とも」


 ザイナブの細い右手が、まず、ギョクハンの細かく編み込まれた長い三つ編みを撫でた。それから、ファルザードの柔らかくふわふわとした髪を撫でた。


「いいですか、くれぐれも、無茶はしないように。ワルダ城は一年はもちますからね。急がなくていいので、慌てず、怪我をせず、それから仲良く。帝都へ行くのですよ」

「……はーい」

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