第5話 ワルダ城からの脱出
ワルダ城の裏口、東の門に通じる扉の周辺は、松明がこうこうと焚かれていて明るかった。ここからは曲がりくねった通路を行って城の裏門を出る。すると母なる大河イディグナのほとりに出る。イディグナ河はワルダ城の東側を守ってくれる天然の要害だ。その河を南下していくと帝都ヒザーナに着く。
「がんばれよ」
「負けるな」
先輩
「お前たちが帰ってくるまでワルダは俺たちが守る。信じろ。俺たちもお前たちを信じる」
「はい、全力を尽くします」
「間違えるなよ」
先輩のうちの一人が、右手を掲げるように差し出す。
「俺たちは草原の狼。砂漠のど真ん中で干からびて死ぬ筋合いはない。魂を捧げるべきは城でなく人だ。つまりザイナブ様だ。万が一のことがあった時には、俺たちはザイナブ様をお連れして逃げる。お前は、生きて、生きて、生き延びて、合流すること、あるいは――復讐することを考えろ」
ギョクハンも右手を掲げてその先輩の手を握り締めた。
「俺は、どこまでも、皆さんを捜して、走り続けます。ワルダ城はイディグナ河のほとりじゃない、ザイナブ様だ」
「よし」
先輩は左手でギョクハンの肩を叩いたあと手を離した。
白馬に乗ったファルザードが近づいてくる。
松明の炎に照らされるファルザードの頬は滑らかで綺麗だ。黒真珠の瞳はまっすぐで、先ほどは軽口を叩いていたが彼なりに真剣であることを思わせられる。黙って澄ましているところを見るとやはり美しい。
ファルザードが前に出ると、その後ろから、
「必ずや目的を果たしなさい。あなたたちの行いは、この国だけではありません、帝国の、ひいては大陸の平和にもつながるということを心得なさい」
ギョクハンもファルザードも、「はい」と答えた。
「先ほど私を連れて逃げるなどという発言が聞かれましたが、私一人の話ではないのです。百万の民にかかわることです。百万の民を救うものと思って、行くのです」
「はい!」
「けれども。まずは、生きて」
懇願するかのようだった。
「私の希望であり続けてください」
「……はい!」
ザイナブが「行きなさい」と告げた。
同時に、裏門が開く低い音が響いた。
「行ってきます!」
ギョクハンも黒馬にまたがった。ひらりと飛び乗り、手綱を引いた。
裏門に向かって駆け出す。
もう振り返らない――つもりだった。
「ちょっと、セフィード、言うことを聞いて」
情けない声が聞こえてきたので、ギョクハンは振り返った。
白馬がそっぽを向いて立ち止まっていた。
ギョクハンが怒鳴った。
「走れセフィード!」
ギョクハンの命令を聞いて白馬が急に走り出した。ファルザードが「ぐえっ」と潰れた声を出した。手綱を握っていなかったら後ろに落ちるところだった。本当に大丈夫なのだろうか。
ギョクハンはファルザードの後ろを走ることにした。二人きりだが、
「……行ってきます
」
少し遠くなったザイナブが念押しした。
「本当に、ファルをよろしくお願いしますよ」
ギョクハンは溜息をつきながら前に向き直った。
門を駆け抜ける。
門の外にナハル兵がいた。河と城壁の間の狭い河辺では隊列を組めなかったのだろう。馬に乗った兵士が一人ずつこちらに近づいてきている。おそらく松明がこうこうと燃えているのに気がついて寄ってきたに違いない。
ギョクハンの背後から矢の雨が降り注いだ。先輩たちが援護してくれているのだ。
ナハル兵が倒れる。
だが、ナハル兵は次から次へと湧いてくる。
「ファル、伏せろ!」
ファルザードが白馬の背に胸をつけたところで、ギョクハンは腰の弓袋から弓を取った。
すぐさま背に負っている矢筒から矢を抜いた。
構える。
つがえる。
放つ。
その一連の動作に迷いやためらいはない。父祖伝来の草原の弓術だ。獲物を確実に仕留める。
ナハル兵の喉元に矢が生える。喉を押さえながら倒れていく。
それでもまだいる。
ギョクハンはファルザードの前に出た。
弓を弓袋にしまった。
そして手綱を離した。
背中の刀の鞘に手を伸ばした。
右手で左の鞘から、左手で右の鞘から刀を抜いた。
まずは一人目、刀を平行に揃えて斜めに上から下へ斬る。胸から血を垂らして落馬する。
次に二人目、やはり刀を揃えたまま斜めに下から上へ斬る。今度は顎をすっ飛ばしてから落馬した。
それから三人目と四人目、刀を左右に構えたまま突っ込んで両側にいる敵兵の首元に刃をめり込ませた。二人分の首が宙に飛んだ。
ギョクハンがそうして切り開いた道を白馬が駆けてくる。振り向かなかったが、ひづめの音でわかる。賢い馬だ。
刀を握ったまま手綱をつかんで引いた。
「ついてこい!」
夜の闇を溶かし込んだ黒馬の後ろを、月の光を溶かし込んだ白馬がついてくる。二頭の馬が夜の河辺を駆けてゆく。
敵兵たちはそれ以上追撃してこなかった。もともと少数だった上に、城壁からは容赦なく矢の雨が降り注いでくるのだ。まして城から離れれば離れるほど暗くなる。ギョクハンとしてはまだやってもよかったが、ファルザードを守ることに専念しなければならなかった。
ハサンを守れなかった。
ファルザードは守らなければならない。
今度こそ、間違えない。
「朝まで駆けるぞ!」
ファルザードは返事らしい返事をせず、「うう」と苦しそうなうめき声を上げた。
ひょっとしてギョクハンの知らないうちに敵兵からの攻撃を受けて怪我をしたのだろうかと心配になって振り向いた。
だが、どうもそういう様子ではない。
ファルザードも振り向き、後ろを見ている。後ろを――敵兵たちの
「びびってるのかよ」
ギョクハンが言うと、ファルザードは「しょうがないじゃないか」と答えた。
「もしかしたら僕らも死体になるかもしれないんだ」
そんなわけがなかろう、と思ったが、ギョクハンは言わなかった。ファルザードの甘ちょろい姿勢に同調してやる筋合いはない。
ファルザードはあくまでザイナブに預けられた存在だ。荷物と一緒だ。無事に帝都へ運べればいい。
そこから先、砂漠を行く二人と二頭を見つめるものは月と星だけだった。
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