最期の声

現夢いつき

第1話

   ○


「ひさしぶり」


 私は今、去年他界した彼女の墓の前に立っていた。

 もう少し奥へと進めば、本格的に緑がうっそうと茂り出す場所であるためか、そこは猛暑であるはずなのに妙に涼しかった。ともすれば、肌寒さを感じてしまいかねない場所である。初めて来る場所であるせいか、少し不気味に感じる。


 墓石は先祖代々使用しているのだろう、二十代の彼女が入るにしてはあまりにも古色蒼然としていた。所々苔むしていることがひどく私の心を落胆させた。

 その中央で、赤、白、黄とさまざまな色の花が供えてあるのも、どうしてだかふさわしくないもののように思われた。

 実家の墓参りではまず感じないようなその思いに戸惑いを隠せない。

 供えようと思って持ってきた花も、今になってここにはふさわしくないもののように思われた。こんなものを彼女に供えるくらいなら、どぶにでも捨てた方がよっぽどいいのではなかろうか――そんな気までしてくる。


 ――はあ。


 彼女が死んでからいったいいくつしたのか分からない溜息を吐いた私は、結局花を供えることはせずに、墓石の苔を隅々まで取り水をかけ、手を合わすだけしてその場を後にした。

 土が剥き出しになっているそこは、墓石を洗ったせいで足場がぬかるんでおり、私の足下を掬った。心臓を握りつぶされたような緊張感が全身に奔る。何とかして横転することだけは避けようとした。

 蝉がけたたましく上げている鳴き声が遠のいていく気がした。ただの汗とも、脂汗とも判断がつかない雫が私の頬を伝っていった。


   ●


結婚とは何であろう。


 私が彼女とまだ付き合っていた頃、そんなことをよく考えたものである。

 当時の私はまだ大学生だったと言うこともあり、適当な持論をいくつもあげてみたけれど、どれもこれも薄っぺらいもののような気がしてならなかった。たかが二十前後の餓鬼が考えることなんて、全て薄っぺらいものだと今の私なら思うのだが、当時は重みがある考えを自分もできるはずだと思って譲らなかった。

 では、今現在の私が結婚を何だと思っているのかというと、それは死と等しいものであると、そう考えている。


 これはまた大げさに出たなと、世間の人は思うかも知れないし、もしかしたらごもっともだと惜しみない賛同をくれる人もいるかも知れない。けれども、私自身はこの考え方に少し否定的であったりする。

 二十代で出した結論が私の人生を通しての結論になるかと訊かれれば、それは断じて否である。これから歳を重ねるにつれ、薄っぺらな今の私など日に日に積み重なっていく未来の私に押しつぶされ、やがて記憶の藻屑へと消えていくに違いないのだ。


 しかし、それはあくまでも未来の話であって今現在の私はやはり、違うのだと口では言っていても、本心では結婚するということは死ぬということだと思っているのだ。そうあつく信じているのだ。

 結婚すれば当然個人の時間などというのは減少する。どころか、誰かと一緒にいるということは常にその人から影響を少なからず受けると言うことである。影響を受けるだなんて言われると穿った見方をしてマイナスな意見ばかりを挙げてしまいそうになるが、いい影響も受けている可能性があることは忘れてはならないだろう。

 いくらダメな人間と一緒になっても、彼ないし彼女から学ぶべきことは多いはずなのだ。無論、反面教師として。


 だが、善し悪し関係なく影響を受け続けるということは、環境が人を作るという言葉からも分かるように、個人という存在を改変してしまうことでもあるのだ。


 個人の存在の改変は価値観の変異とも考えられよう。


 ここで疑問なのは、価値観が変わってしまった人間は変わる前と比べて全く同じ人なのかと言うことである。

 味覚が変わった人もいるかも知れない。口調が変わった人もいるかも知れない。趣味が変わった人もいるかも知れない。行動原理が変わった人もいるかも知れない。

 スワンプマンですら同一人物ではないと断じられる世の中で、その変貌はまさしく他人と言ってしまっても過言ではないのではなかろうか。


 死んで生まれ変わったと表現しても差し支えないのではないか。


 私はそう考えていた。

 そして、彼女が死んでしまって一年が経った今、私が彼女と結婚して互いに死を遂げる覚悟があったかとそう訊かれると、残念ながら分からないと言ってお茶を濁すしかない。

 大学生の時の私なら迷わず覚悟はあると言っていただろう。けれども、大学生から社会人へと生まれ変わった私はあの時ほど身軽ではない。少しではあるけれど責任というものを自覚し、重みを増したのである。


   ●


 帰宅した私は一人で素麺をすすって昼食とした後、1LDKの部屋の中央で寝そべった。どうしてもやる気が起きなかった。まるで蝉の抜け殻のような私を窓から入ってきた風は頬をねっとりとなで上げた。そのあまりの蒸し暑さに汗が噴き出る。

 堪らないと思い、エアコンのリモコンを探すが自分の手の届く範囲にはなく、つけることを断念した。室温は三十六度を超えていたが、どういうわけか命の危機は感じなかった。ただ単に、暑いなあという所感を抱いただけである。


 私はどうすることもできず、その場で目を瞑った。脳裏にはここで彼女と過ごした思い出がふつふつと浮かんできてははじけていった。今となってはもうあり得ないはずの出来事で思い出すだけで下唇を噛みしめたくなるくらい辛いのに、口角は自然と上がっていった。

 心の中で何がぐつぐつと煮えているのか分からない。さながら闇鍋のようだと思い自嘲していると夢の中へと意識が沈んでいった。

 あれだけうるさかったはずの蝉の声は気がつけば消えていた。


   ●


 予想外の出来事というものがある。それは人間の行動を完璧に掌握できない以上仕方のないことなのだが、それでも自分を責めたくなるのが人情というものである。どれだけ自分に責任がなくても何かしら見つけ出してしまうものなのである。

 あの時、ああしていれば。あの場面に一緒にいてあげれれば。

 本当にそれで何かが変わるのか実際は分からないのだが、例え机上の空論に過ぎないとしても、自分がいたら展開が変わっていたはずだと無根拠に思うのだ。

 無論、私だってそんな事態に陥ったことはある。彼女を失った日など特に顕著であった。


 ものに当りこそしなかったが、部屋の中にこもりずっと涙を流していた。何度嗚咽しトイレで吐いたか分からない。数日間は飯を食べることはできなかったし、寝ても悪夢を見た。助けを求める彼女の前を私が素通りするのである。何度も何度も執拗しつように。

 しかし、二週間が経った頃には食事を無理矢理喉に通すようにしたし、悪夢も見ることはなくなった。代わりに彼女と楽しく談笑する夢を見た。他にも、前々から行きたかった場所を旅行するものも見た気がする。そして、目を覚ました私は涙しこんな夢を見る自分にひどく腹を立てるのであった。


 もう実現することはない光景を夢で見ることは、何ものにも耐え難い拷問になった。どれだけ楽しくても、頭の片隅にもう不可能なのだと思えば、途端にひどく虚構めいて見えてしまうのだ。まるで、宙から自分を見下ろしているような気分である。

 それだけならばまだよかったかも知れないが、もう二度と起こりえないという事実は私の心を地獄へと突き落としたし、その上、このように現実を歪めた夢の中に彼女を出していることは、大切な人で人形遊びをしているのではないかという懸念を抱かせ、私の良心をひどく責め立てた。


 なまじ、夢の中で私は彼女との逢瀬を脳天気にも楽しむだけであるから、そのような懸念は日に日に肥大化して行くばかりであった。一ヶ月経つと、あまりにも肥大化しすぎたそれは私から痛みを奪った。

 まるで麻酔でもかかっているかのように、心は鈍感になった。涙は涸れてしまったのか一滴だって流れはしなかった。ただ、思い出したように麻酔は途切れる事があった。その時ばかりは枯れていたはずの涙で枕を濡らした。


 私はこの一年間を死んだように過ごしていたと思う。


 死んでそのまま生き返ることができず生きてきたのだ。

 誰からも影響を受けぬように生きた。誰かと交われば私の中にある彼女の痕跡が消えてしまうのではないかと思われたのだ。しかし、それでも完全に接触を断つことはこの現代社会では困難であった。否、不可能であったと言ってしまおう。私には仕事もあるのだから。

 けれども、私の中の彼女の影響力が薄まっていくことは怖かった。このまま生きていくぐらいなら真の意味で死んだ方がいいのではないかと追い詰められたこともあった。

 その時どうして自分がそんな思いを抱いたのか、今は分かる。


 私は結婚というものを死ぬことと同義であると考えていた。しかし、結婚の前にもう一段階あるステップを踏まなければならないだろう。それは愛せるかどうかである。


 もっと言えば、死ぬ覚悟を持って彼女を愛せるかどうかである。

 そしてその答は非常にハッキリしていた。

 結婚などと相手のことも考慮しなければならないことを思うから、話がややこしくなるのであって、そもそも自分のスタンスと向き合っていないやつが結論を出せるわけがないのだ。出せたとしたら、そいつは何も考えていないに違いない。

 私は彼女を愛している。それこそ、私の命を差し出しても少しも惜しいと思わない程度には愛している。


――だから私は。


   ○


 ――だから私は、あの時足を踏み出さなかったのだ。考えを改めて横転することを選んだのであった。

 ふわふわと霞がかった幻影が私の頭から去って行った。

 いわゆる走馬燈というものを私は見ていたのだ。


 抵抗することを止めた私の身体は彼女の墓石に後頭部から突っ込んでいく。この角度で頭を強打すれば即死は避けられないだろう。少なくとも死には至るだろう。私はそう思った。

 これでようやく私は彼女のことを思ったまま死ねるのだ。彼女との記憶がいまだ新鮮でみずみずしいうちに、それを抱きながら死ねるのである。


 ああ、こんなにも素晴らしいことはあるだろうか!


 直後、私の後頭部から鋭い痛みが奔った。でもそれは一瞬のことである。その後は、私の意識は静かに白濁の中に沈んでいくだけである。しかし、私が最期に意識を完全に手放す前にひどく懐かしい、それでいて待ちわびていたような声が聞えた気がした。

 聞き覚えのある女性の声は、呆れたふうにこう言った。


「ひさしぶり」

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