夏花火

 男衆が山車だしを曳いて回った昼間の喧騒は遠く、人々の流れも町を背に川沿いへと向かう夕刻。毎年同じ空に上がる花火を眺められる離れの濡縁には、若い娘と赤子の姿があった。

 縁の隙間が気になったのであろう敷かれた小振りな籐筵とうむしろの上で、赤子は隅取すみとり腹当一枚でご機嫌に自分の足の指を咥えている。

 蚊除けのためにゆるゆると団扇で風を送る娘には赤子への愛しさは見えるが、母親の表情はない。親しい者のお守りなのであろう。白地の綿絽めんろの浴衣は深い藍で流水に菖蒲あやめ、青磁色の帯は夏の宵らしくゆったりと結ばれている。

 まだ寝返りはしないものの落ちないようにと気遣って片手を縁の端に置いて覗き込めば、それに気付いた赤子が嬉しそうに何やら声を上げている。団扇を置くと両手を自分の指につかまらせ、万歳などさせては二人で楽しげにしている様子は最近の屋敷ではよく見る光景だ。

「慣れたものですね」

 じゃり、と庭石を踏みしめる音は先ほど赤子の布を頼んだ女中だろうと気も払わずにいた娘は、予想外の声にはっと顔を上げた。

「驚き、ましたわ」

「それは失礼しました。庭にいらっしゃると聞いて」

「ええ、坊がようやくご機嫌になりましたの」

 ここ最近、夕暮れが近づくとむずがるようになった赤子は、母親ではなく叔母である娘が抱いてあやして泣き止むことが多い。突然の来訪者の方に顔を向け不思議そうにしていたが、白い手で優しく腹をぽんぽんと叩かれてきゃっきゃと声を上げた。

 睦じい二人の様子に目を細めていた若者が座っていいかと尋ねると、赤子から片手を離し団扇に持ち替え慌てて濡縁の場所を開けた。男は昼間の法被はっぴから墨色のちぢみへと姿を変えた腰を下ろす。

「夜はそのままお宮の方に行かれるものと」

「昼間に散々参りましたから、後は明日で勘弁してもらいました」

 折角の花火を許嫁と見たいのだと惚気て蹴り出されて来たと、揶揄うような口調に娘は頬を染めて下を向く。着崩れてはいない衿を空いた片手で寄せて、気まずげに身じろぎをした。

「いらっしゃると分かっていましたら、浴衣などに着替えませんでしたのに」

「昼の水が掛かりましたか」

「いえ、この子の行水で」

 山車を曳いて回る折、要所要所で盛大に水を掛けられる。山車や神輿には当たらないようにするが、曳き手や見物客にはお構いなしだ。行程の人垣の中に確かに顔を見たから、その時かと思えば違うと首を振る。

 今日は暑かった。汗疹あせもを心配してたらいに温水を張ったら殊の外喜んで、一緒に世話をした女中共々濡れ鼠になったと笑うその顔はあくまで柔らかだ。

「まるで貴女が母親のようですね」

「お姉さまはおたなの方もありますし。私にできるのは子守くらいですから」

 幼い頃から人当たりが良く才気煥発だった跡取り娘の姉は、常連客のみならず取引先からも随分目をかけられてきた。婿をとった後も、気難しい商談相手の応対や使用人の指導など姉にしかできない店向きの仕事は引きも切らない。母が身罷った後、内向きの家事を任されてきた妹はそのまま乳母のような立場におさまっていた。

 それもこの秋までの事になるのだが。

「……予行演習は十分そうだ」

 楽しげな声に呆気に取られた娘は赤い顔でしばらく何か言おうとしていたが、やがて諦めて赤子に向けていた団扇を持ち直すと自分の熱を下げるようにして仰ぎ始めた。そんな仕草を男は膝に片肘をついて満足そうに眺めていると、庭先に女中が現れた。布を持ってきたのかと思えば、赤子を連れて母屋に行くと言う。

「丹下のご隠居さまが若君のお顔を見たいと」

「お姉さまに抱かれていれば、人見知りも大丈夫でしょう」

 言外に慣れぬ者に抱かさぬよう告げれば、承知したと頷いて古参の女中は赤子を抱いて来た道を戻って行った。

 代わりに置いていった行燈あんどんが、急に静かになった辺りを黒く沈める。遠く河原のほうから騒めきと掛け声が風に乗って流れて来た。沈黙が気まずいのか、これ幸いと娘はやけに明るい声を出す。

「そろそろでしょうか」

「そうですね。此方へ」

 立ったままだった娘がもう一度隣に座るのと、どん、と低い音が響いたのは同じ時だった。

 明るい月には雲がかかり、御誂え向きの風に煙は流されて、薄闇色の空には色鮮やかな花火が咲く。次々と打ち上がる尺玉に目をきらめかせていた娘はやがて、隣の許嫁が同じ物を見ていない事に気がついた。

「あの、小関さま。花火はお好きでなかったでしょうか……私ひとりではしゃいでしまって」

 確か先程、花火を見たくて抜けて来たと聞いたはずだったが。心配になって訊ねると、そうではないと言われほっとする。

「いえ、見惚れていました」

「本当に。先程の菊も見事で」

 相槌は真っ直ぐに見下ろす視線に遮られた。

「空の菊より、隣の菖蒲の方が私には」

 観客の歓声は大きく、パラパラと散る花火の音は聞こえない。次の玉が上がるまでの静寂に、その一言は深く落ちた。濡縁に置いた手は、重ねられた大きなそれに逃げ場を無くす。

 何かにはっとして娘は反対の袂で顔を、口もとを隠そうとした――流水に、菖蒲の柄の袖で。

「だ、誰かに見られ、」

「この場には他に誰も……ああ、そうですね。こうして隠して仕舞えばいい」

 娘の耳のそばに聞こえる墨色の麻の衣摺れの音。

 囲うように頭の後ろまで袖で覆われて。

 打ち上がった菊も牡丹も目に入らず

 ただ見えるのはお互いの双眸、それも今は瞼の裏。


 花火に照らされ浮かび上がる白い菖蒲が月と同じに隠されるのは、ほんのひと時。ご隠居に抱かれるのを嫌がった赤子の大きな泣き声が、母屋から響くまで。

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