雛祭り

「やっぱりここに居らしたのね。貴女は本当に本がお好きですこと」

「お姉さま」

「ほら、でも今日はお仕舞いになさいな。此方に来て頂戴」

 読みかけの本に手製の栞を挟むとおとなしく頷いて、一刻ほどを過ごした居心地の良い隠れ場所に別れを告げる。離れの書庫を後にして後ろ髪を引かれる様子を見せまいとする妹を肩越しに微笑みながら先導した姉は、母屋の奥の続き間の襖を開けた。

 床の間には、落ち着いた筆致ながら柔らかな光溢れる桃の花の掛け軸。その手前には段を重ねる目にも鮮やかな緋毛氈ひもうせん。書付のされた木箱から出された紙や綿に包まれたお道具類が其処此処に置かれている。

「まあ、お姉さま」

わたくしが引き受けましたけど、やっぱり手伝ってくださる? 」

「多恵も私も申しましたでしょう、屹度お腹が引っかかりますわよって」

「あら意地悪ね。できると思ったのよ」

 ゆるりと結ばれた萌木色の帯の下で膨らんだ下腹に手を当てながら悪びれず楽しそうに返す姉に、妹は微笑んだ。

「では、お姉さまはお座りになってらして。この妹が手になりましょう。仰る通りに並べて参りますから」

 障子越しに入る光は暖かさを感じさせるものの、長い冬の間に蓄えた奥の間の空気はまだ温むほどではない。臨月の姉を座布団に座らせると火鉢を引き寄せた。

 男雛を横に置き、女雛に檜扇ひおうぎを持たせながらの姉の指示に従い、緋色の敷布は華やかな道具で埋まっていく。長持、箪笥に御所車。貴女はこれが好きだったわねと懐かしそうに渡された茶道具。左近の桜、右近の橘。

「さあ、そちらで最後ですわ」

 男雛を座らせた妹が手を差し出すが、じっと手の中の女雛を見つめたままの姉に首を傾げる。

「お姉さま、どうなさいましたの」

「……お母さまのお持ち物の中に、此れと同じ模様の帯がありましたわね」

 白躑躅つつじかさねの色目も美しい女雛の衣裳は花菱を囲む七宝しっぽう文様。既に鬼籍に入った姉妹の母の帯に確かに見覚えがあった。

「ええ、そういえば。お色は違いましたけれど」

「参りましょう。多恵、お願いするわ」

「え、まあ、お姉さま?」

 妹の手に乗ったのは、女雛ではなく姉の掌。幼子の時のように引かれ部屋を出ると、古参の女中は既に廊下で待って居た。

 俄かに華やいだ私室に響く妹の戸惑う言葉は全て笑みで流されて、あれよあれよと言う間に晴れ着へと替えられる。

 淡い鶯色の三越縮緬ちりめんの友禅振袖に描かれるは嫋やかな四君子しくんし。合わせる帯こそ先ほどの女雛の衣裳を思わせる七宝文の織。此方は菊菱だったわねと姉は言うが、典雅なことには変わりない。白茶の地に箔糸の施された帯は、紅、淡萌黄、藤色などで彩られ、普段如何に大人しめ好みの妹といえすっかり娘らしい装いとなる。

 ふっくりと結い直された島田につまみ細工の花簪をさすと、これが仕上げと紅筆を手にする姉。

 一度は遠慮したものの誰が来るでも何処に行くでも無しと言われ、そういえばこの姉はお人形遊びがお好きだったと思い出す。諦めて目を閉じれば細い指先で、す、と顎を支えられてひやりとした筆が柔い唇に乗った。

 もうよろしいですわ、との声に恐る恐る目を開ければ、何故か嬉しそうな多恵が横から手鏡を差し出す。映る姿に我を認められず、忙しく姉と鏡とを見比べて何か言おうとした口は訪を告げる声に閉ざされた。

「あら、小関こせきの小母さまが」

「お姉さま、私は」

 承知と頷く姉に、貴女は奥の部屋の片付けをと逃して貰い安堵の息を漏らす。お父うさまにはお見せしたいのだから脱いでは駄目よと釘を刺され、人目につかぬように雛の間にそっと滑り込んだ。

 過ぎた客室からは姉と客人の楽しげな会話。聞き取れはせずとも川のせせらぎのように途切れずに流れ来る語らいの声を背に、畳に散った薄紙や箱を静かに片付けていく。

 件の女雛を手に取れば、確かに似た文様に母を思い出し頬も緩む。男雛の隣にそっと据えて壇の前で膝をつき、仕上がった雛飾りを眺めていると前触れもなく襖が開いた。

「こ、れは失礼を」

 手に大きな風呂敷包みを下げ、呆然と立ち尽くすのは着流しの偉丈夫。よく知ってはいるが今ここにいるはずのないひとに驚き過ぎて声も出ない。多忙を理由に正月もこの郷里に戻らなかった小関の嫡男が何故。

「いえ、母にこれを此方に運ぶよう言われまして、真逆いらっしゃるとも思わず」

 向こうもよほど慌てているのか常の低く落ち着いた声音は僅かに上ずり、手にした物は大きく揺れてかたことと音が鳴る。

 そういえば雛の道具を譲って下さると以前に話があった。合わせられるはずもない視線は白い足袋の先に落ち、浮かしかけた腰を戻し慌てて指を膝前につくと彼もすぐ前に座する。囀る胸を堪えてなんとか絞り出した声は微かに震えていた。

「此方こそご挨拶もせず……お戻りになっていらっしゃったのですね」

「ええ、昨夜」

「……この様な格好で」

「お似合いです」

 被せる様に断言されて、耳まで赤く染まった姿を目を細めて眺められる。いよいよ隠す様に俯いた頬を友禅の花弁がふわりと覆い、いつになく抜いた衣紋からは紅梅の香がたった。

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