誰がため君は歌う

 あたしは毎日外に立つ。

 大通りから一本入った路地にある一軒の飲み屋、その暖簾のさがる軒下があたしの仕事場。そこであたしは歌を唄う。

 ちょっとは足を止めてくれる人もいるけれど、大抵はちらりと視線を寄越すとそれっきり。そのまま暖簾をくぐって、あたしの声など届かない騒がしい店内に消えていく。

 そりゃそうだ。あたしの取り柄はこの声だけ。地味ななりはお世辞にも綺麗とも若いとも言えないしね。外で風に吹かれてあたしの歌を聴くよりも、明かりの下で酒を注いでもらう方がいいに決まっている。

 それでもあたしは外に立つ。通りかかる誰かをこの店に呼び入れるために。毎日、毎日――それはあの人との約束だから。


 あたしは先代に買われてここに来た。爺さんなんてって思ったけれど、あの人は優しい人だった。

『おお、いい声だなあ。これなら、うちに来る客も喜ぶて』

 あたしの歌を褒めてくれて店の前で歌うように言った爺さんは、けれども、雨の日や風の強い日は決して表に立たせなかった。店じまいの後は今日もご苦労さんってねぎらってくれて、自分の部屋にもあげてくれた。

 嬉しかったよ。あたしの人生、そんなふうにしてもらったことなんて今までなかったから。

 それにしても。初めてあたしの歌を聞いて目を丸くしてたおさげ髪の孫娘のお嬢さんが今年から女学校に上がったっていうのだから、時が過ぎるのは早いもんだね。

 あたしはね、長く生きているだけで学もないし。生まれた時から一人ぽっちだったから、知らなかったんだ。

 あんなにあっさり人が死んじまうなんて。

 この夏のはじめに爺さんはぽっくりと亡くなってしまった。店は息子夫婦が継いでさ、あたしはお役御免になるかと思ったらそうでもなかった。

 でも、まあ、そうさね。放り出されはしなかったけれど、忘れることにしたらしいよ。爺さんがいなくなって以来、扉の内に招かれることもなければ、目だって合いやしない。

 それでもあたしはここで歌う。だって、爺さんに頼まれたからね。あの皺だらけの手でそっと頭を撫でで、もういいよ、お疲れさんって言ってもらってないからさ。

 あたしにできることなんてたかが知れているけれど。可愛がってくれた人の願いくらいは叶えてやりたいじゃないか。


ねえさん。いい声してるね」

「……うるさいよ」

「そんな邪険にしなくても。俺も今日からここで世話になるし」

 入道雲にも見飽きた頃、きらきらしい姿の若い男が馴れ馴れしく隣に立った。

「お前さんは?」

「ここの可愛らしいお嬢さんがさ、俺のこと気に入ったって」

 派手な造作に派手な服、そのくせ線の細い身体。指なんて細工物みたいで、酒樽どころかお銚子だって持てそうにない。

「はん、そんな華奢な身体で何ができるのかねぇ」

「ははっ、が来るのと捨てられるのと、どっちが早いかな」

「誰が上手いこと言えと……あんた、自分のことなのに容赦ないね。そういうの嫌いじゃないよ」

「ん、んんっ? え、あの、いや、」

 とたん、赤い顔を見せた男は、かこかこと言葉にならないおかしな声を出す。

「まあ、他に行き場のない同士さね。いる間はよろしく頼むよ」

「あ、う、あの、姐さんみたいに歌は上手くないんで。俺は見てくれだけだから」

 不自然な角度で頷いて、せいぜい賑やかすから歌は姐さんが頑張っとくれとそう言うと、道行く娘たちに笑顔を振りまき始めた。人目をひく容姿に客は集まり、そうすりゃあたしの歌も興が乗る。

 その晩は、いつもより客の入りが良かった。


 爺さんに拾われたあたしと、お嬢さんに選ばれた男。ただ一時、袖振り合っただけの縁なはずなのに。しばらく一緒に過ごすうちに、男はその目と声に、前にはなかった甘さを滲ませるようになった。

「姐さん、やっぱいい声」

「……こんな年増のこと口説いてるんじゃないよ。大体いくつ違うと思ってるんだい」

「いや、本気。たいして変わんないよ? ほら、ちょっと先を考えてごらんよ。たとえばこの店のおかみさんと大将だってさ結構な歳の差だけど」

 たとえ十六違ったところで七十三歳と八十九歳っていえばほとんど同じだと目を輝かせる男に、開いた口がふさがらない。

「同じな訳あるかい」

「そうかなあ、一緒だって。どうせとしなんて人が勝手に区切っただけの数字だろ。それにしても、来年までその声が聞けないのか」

 秋が来る頃。思い出したように家の人があたしたちのところに来て、無沙汰の詫びと来夏までの休暇を申し付けられた。

「しかも顔も見られないとは……一年近くも耐えられるかなあ」

「馬鹿だね、お前さんは。としなんて人が勝手に作った区切りなんだろ」

「ああ、その言い方も。姐さん、なあ、俺こんな頼りない体だけど姐さんと同じ付喪神になるまで頑張るよ。だからさ、また――」

 ふつりと途絶えた声に、男がいなくなったことを知る。聞こえなくなって、ほっとしたのか物足りないのか。この気持ちが何なのか。

 ――あたしたちに時間はたくさんあるから、考えるのはゆっくりでいいか。

 夏の名残の風に体を揺らすと、今年最後の歌を唄った。




 りん、と澄んだ音が、指から下げた糸の輪に響く。ずっと軒下に出しっぱなしだったのに、多少砂埃が付いているくらいで音色に曇りがないのがさすがだと思う。

「お母さん、箱は」

「テーブルに出してるわよ。小さい方の木箱が鉄器のね。包み紙の入っている大きいのが、ガラスの方」

 乾いた雑巾でくるくると拭くと、すっかり綺麗になった。ご苦労様と心の中で言いながら、どちらの箱にもそっと蓋をする。

「ねえ。風鈴って本当は、夜は毎日、家の中にしまうものでしょ?」

「そう言わないで。ずっとおじいちゃんがやってくれていたから、つい忘れちゃうのよ」

 相変わらず雑な母親だ。おおらかと言いなさい、と本人は胸を張るが、おじいちゃんが骨董屋で見つけてきた黒い南部鉄器の風鈴と、私が買った赤い絵付けのガラス風鈴を並べて吊るすところ、適当さが溢れ出ている。

「来年は、ガラスの方は自分の部屋に吊るそうかなあ」

「あらダメよ。それ二つ並んで下がっているの、結構評判良かったんだから」

「そうなの?」

「なんかね、仲よさそうだって」

「ふふ、何それ。まあ、ちょっと目は引くかもね」

 そうは言ったけれど。

 ゆったりと風に吹かれて、高くどこまでも透き通る音と、カラカラと詰まったような音が交互に聞こえてくるたびに、まるでおしゃべりをしているみたいだと思ったのも本当……来年まで離れ離れか。

 妙にセンチメンタルな乙女心に軽くツッコミを入れつつ、私は二つの箱を納戸の隅に並べて置いたのだった。

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