和風な短編集
小鳩子鈴
蛍
八畳間の
白の織りで下側に青色のぼかしが入った
「にこにこしてる。楽しい?」
「そりゃね。蚊帳なんて実際に触ったことなかったし」
「都会育ちだものねぇ。色々珍しかったでしょ」
「聞いてはいたけれど本当に古き良き日本映画みたいだな、ここは」
私はついこの前まで住んでいたんですけどね、と可愛らしく拗ねる彼女は木綿の寝巻姿。今、二人で住んでいる東京の官舎ではどうにも違和感のあるその姿も、ピンと張った蚊帳の中ではまるで一枚の絵のようにしっくりしていた。
ガーゼケットの薄掛けを足元に置いてころりと敷き布団に横になり、心地よさげにくつろいでいる。
就職で東京の親戚を頼り上京した彼女と出会い、結婚を決めて。自分が独身寮を出る時期と重なった為、ご両親とは向こうで慌ただしくお会いして籍を入れた。
既に式も済ませた今になってようやく、彼女の郷里へ随分と遅れた挨拶をしに来たのだ。
次はいつになるかも分からない、久々の里帰り。
ここにいられる三日の間、彼女には存分に好きに過ごして欲しいと何も予定は入れていない。
「玄関も台所も広いし」
「元々、土間だったから少し低くて」
「風呂は檜だし」
「前は五右衛門風呂だったのよ」
「こうして窓開けて蚊帳吊って、縁側で蚊取り線香」
「網戸がないんだってば」
くすくす笑いながら合いの手を入れる。朝になれば、その縁側に姫鏡台を置いて身支度をするのだろう。
自分には馴染みのないそんな光景を想像すると、時折聞こえる蛙の声と相まってまるで知らない過去に戻った気がする。この慌ただしい昭和のご時世になんと長閑なことだろう。
「……なかなか来られなくて悪いことをしたな」
可愛がっていた末の孫娘の花嫁姿は写真でしか見せられなかった。
仕事の関係上、式は向こうで行わざるを得なく、高齢の祖父母のお二人が移動するには遠い距離だった。
持って来たアルバムを目を細めてめくる、先ほどまでの姿がまざまざと思い起こされる。
「電話では何度も話してるし、お仕事忙しいのは知っているからね、気にしないで。むしろ甲斐性のある旦那さんだって褒められてたじゃない」
「それでもさ」
「国鉄もバスも乗り継いでほとんど一日ががりよ。横浜にいる下のお兄ちゃんだって、年に一回来ればいい方なんだから」
家を出た子どもはそんなものだと皆思っている、ましてや嫁にいった娘がそうそう来られるわけもない、と。
ゆるく編んだ髪を左肩に流し、そろそろ寝ようと話を打ち切られた。
頷いて天井電気の紐を引くが、半分開けた障子戸の向こうから届く月明かりで室内はほんのりと明るい。
そっと
「……へえ」
「ふふ、いいでしょ」
二枚ぴたりとくっつけて敷いた布団を包むように張られた織の薄布。たった一枚なのに。
「なんと言うか、すごく特別な空間っていう感じ」
「狭く囲われているはずなのに、贅沢な気がするのよね」
母屋一階の奥座敷。普段は使わないこの部屋は、時代物の箪笥が一棹と床の間に掛け軸があるだけで人の気配がない。
客用の布団を用意され、二階にあった彼女の部屋は既に物置だから入ってくれるなと言われたと笑う。
開けた縁側の先は砂利を敷いた通路と小さい池、築山と庭木。今日着いたのは日も暮れてからだから分かっているのはその程度。
最寄りのバス停に降りた時にはまだ明るかったのだが、あちこちから掛かる再会を喜ぶ声に応えているうちにそんな時刻になったのだった。
風もない夏の夜。
それでも、樹々と土に冷やされた外の涼やかな空気は、ひたひたと寄せる波のように静かに流れ込んでくる。
「蚊取り線香はあのままで?」
「さっき見たらもう終わるところだったから。あ、ほら消えてる」
目を凝らせば、赤く燃えるところもなく灰置きは静かなもの。そうか、と腰を下ろした布団は昼間干していてくれたようで、張りのあるシーツの下でふかりと柔らかく沈んだ。
月明かりの下、ゆったりと微笑む妻となったひとを見る。
「なあに?」
「前々から思っていたけど」
「うん」
「……いや、やっぱりいい」
「え、やだ、気になる」
何もないところだと軽く言う、その口元はいつも
土地と、家族に愛されて育ったのだとその全てが言っている。
帰るべき故郷を持たず、親しい親族もいない自分とはまるで逆の彼女に惹かれたのは必然なのだろうと思う。
何でもない、と言葉を濁すも追及は止まず、宥めるために髪に手を当てた。途端、少し悔しそうな笑顔を見せる。
何かを呟こうとするその唇を塞いでしまおうとすれば、視界の隅の縁側に通るもの。
「……蛍?」
音もなく光を瞬かせながらふわりと飛ぶ蛍は、そのまま近寄ると蚊帳にとまった。
「下の
「そこの池じゃなく? 堤なんてあるのか」
「家からはちょっと見えにくいけど、坂のすぐ下にあるの。明日案内するわ」
そう言われれば、蛙の声はすぐそばの池から聞こえるには遠い気がした。心持ち声を潜めながら、繰り返すその光の点滅を二人で見つめる。
「蛍、初めて見た」
「そう」
ちょうどそんな時季だった、と懐かしそうに言う横顔が古文をなぞる。
「夏は、夜。月のころはさらなり。やみもなほ……な感じよね?」
タイムスリップしたみたいだと笑う。
本当に、そうだと。
「……音もせで 思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけれ」
詰まっていても空っぽな自分に、日々を生きることのたのしみを教えてくれたのは彼女だった――このひとが、その身に受けた以上のものを。ここから連れ去るかわりに。
何を言われたか気付くと、はたと止まって夜目にもわかるほど頬が赤く染まる。先ほどのは誤魔化せたかとそのまま引き寄せると、耳元で囁く声がした。
――声はせで 身をのみこがす蛍こそ いふよりまさる思ひなるらめ
「……予想通りとはいえ、ずるいな」
「こっちのセリフよ」
笑いあっているうちに、小さな光はまた飛んでしまった。
空にあがった蛍が照らす二階の部屋は、入室を禁じられた嫁いだ娘の元自室。
物置になっているはずのそこでは、
彼女の母も華燭の日に纏った黒地の引き振袖は、金糸が使われた鮮やかな華々の上を鶴が舞う。もう一方の羽織袴は黒の五つ紋付。
横浜にいるはずの下の兄が夜行に揺られて郷里に向かっていることも。馴染みの写真屋も仕出し屋も張り切って支度をしていることも、知らぬは本人たちばかり。
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