武井緒乃花の未来

 「何というか、本当に部屋に入っちゃっていいの?」

 「ええ、もちろん。私はお礼がしたかったんですから」

 緒乃花は来客をリビングに案内した。ひとり暮らしであるため、こぢんまりとしているものの、今日のためにある程度部屋を片付けたつもりである。来客はまるで未知の世界にいざなわれたかのようにあたりをウロキョロと目移りしていた。

 「洋平さんは、紅茶飲めますか?」

 「あ、うん。飲めることには飲めるよ」

 「じゃあ、適当に座っていてください。今、紅茶をれますので」

 少々素っ気なかったかなと思いつつも、緒乃花はキッチンへと向かった。洋平は戸惑いつつも、低いテーブルのそばに正座で座ることにしたらしい。ちょこんと肩身狭そうにしていた。

 しばらくして、紅茶を淹れ終えた緒乃花は、マグカップとあらかじめ用意していたバスケットをトレイの上に乗せ、リビングまで戻った。アールグレイの柔らかな香りが鼻をかすめる。久しぶりに香りを楽しんでいる自分に気付いた。

 「お待たせしました。遠慮なく飲んでくださいね。あと、クッキーもよかったらどうぞ」

 「あ、ありがとう……」

 洋平は低姿勢のままにマグカップを右手に持ち、息をそっと吹きかけてからゆっくりとすすった。こんなにも緩そうな人が、勇敢に自分を助けてくれただなんて、にわかには信じがたい。

 「豪華なものを用意できなくてすみません」

 「いえいえ、とんでもない。お礼を貰うために動いたわけではないですから。この紅茶、すごく美味しい」

 洋平は目じりにしわを寄せながら、楽しそうに飲んでいた。少しだけでも借りを返そうとしたはずであるが、洋平の笑顔を見てしまった以上、その借りはまた増えたように思えてしまう。

 「それにしても、たくさんトロフィーを持っているんだね」

 「え、トロフィー? ああ」

 洋平の視線の先には棚に置かれた無数のトロフィーや賞状があった。これだけはと思って実家から持ってきたものであったが、あそこまで大量にあると、否が応でも目につくかもしれない。

 「全部、学生時代に獲ったものですけどね」

 「なにかのスポーツ?」

 「はい、柔道をやっておりまして」

 「それはすごい!」

 洋平は目をまん丸にしていた。およそ自分がバリバリの格闘技をしているなんて思っていなかったのだろう。現役のころから筋肉が付いているにもかかわらず細身だったため、そのような反応をされることも慣れている。ただ、あれだけ打ち込んできた柔道も、結果的には就活のアピール要素としてしか機能していないことに、緒乃花は思わずため息をついてしまった。

 「どうしたの、溜息なんてついちゃって」

 「す、すみません。なんでもないです」

 緒乃花はとっさにかぶりを振り、なんとかごまかそうとクッキーを一枚つまんで、口の中に含めた。それにならって洋平もひとかけらつまんでかじる。美味しいといいながら頬を緩ませていた。

 「それにしても、どうしてあのとき、私を助けてくれたんですか」

 今日の目的は、洋平さんにお礼をすること、そしてもうひとつ、洋平さんがどうして助けてくれたのか、理由を訊きたかったからだ。

 「こっちが訊きたいよ、どうして君は死のうとしていたの」

 「それは……」

 わけを話せば長くなる。が、洋平も急いでいる予定はないらしいし、自殺を選択するほどひどいことを受けていたかどうかを確認したかったため、緒乃花はマグカップを片手に、つらつらと苦い過去を語った。


 「それで、私は存在していないんじゃないかと思いまして」

 「なるほどね……」

 洋平は、気難しい顔をしつつも、できるだけなごやかな空気は保とうとしていた。気を遣わせてしまうことになるなら、言わなければよかったかもと緒乃花は後悔する。

 「でも、武井さんは死ななくてよかったと思うよ」

 「え、どうしてですか?」

 「過去にとてもつらかった経験を受けていたことは痛々しく伝わった。だけど、だからといって、武井さんが諦めなくてもいいんじゃないかな」

 「さすがに上司に逆らうのは……」

 「いっそのこと、逆らっちゃえば? なんなら、えりをつかんでともえ投げでもお見舞いしちゃうとか」

 「巴投げって結構痛いんですよ?」

 緒乃花は冗談交じりに返答した。洋平も、およそ面白半分で言っているのだろう。

 「自分をしばり付けていた人を、ひと振りに倒すことができたら、さぞかし爽快だろうね」

 「ええ、まったくです」

 洋平さんは口もとをほころばせながら、少しばかり残っていたアールグレイを一気に飲み込んだ。そして、次の瞬間、さきほどの表情とは全く違う、やけに神妙しんみょうな面持ちになった。

 「どうかしたんですか?」

 「あ、いや、武井さんは、死ななくても新しい人生を切り開くチャンスがあると思うんだけど、僕にはもうなさそうなんだよね」

 洋平さんはまた冗談を言っている、緒乃花はそう解釈し、軽はずみな言葉でつないだ。

 「またまた、もうすぐ死んじゃうみたいなこと言ってますね」

 「ええ、実は僕、明日死ぬんだ」

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