菅原詩音の過去

 父の座るテーブルの前に、だし巻きたまごと肉じゃが、わかめと豆腐の味噌汁が一枚のお盆に乗っかったのを差し出す。詩音は自分の分はよそわずに、父の反応をただ待った。

 父が肉じゃがのじゃがいもとしらたきをぶっきらぼうにつまみ、口に運ぶ。

 「全然味がしねぇじゃねえか!」

 父は両手をテーブルに叩きつけ、勢いそのままにお盆をひっくり返した。たちまちお盆の上に載っていた料理は宙を舞い、見るも無残に飛び散る。だし巻きたまごがへたりとなりながら、みそ汁のまりにひたった。

 詩音は特に物怖ものおじすることもなく、雑巾ぞうきんとバケツを探しにいく。まぁ、そんな気がしていたのだ。父が家に帰ってきたときはいつも晩ご飯をつくっているが、ときどき、それも決まって機嫌が悪いとき、父は食べ物をそまつにしていた。たぶん味付けはそれほど問題ない。以前同じレシピで出したときは、何も言わずに食べていたのだから。

 ボロボロの雑巾と水色のバケツを手に取った詩音は、なるべく父のかんに障らないように、静かに後片付けをした。いつもの父ならリビングから離れて、酒の入った瓶を片手に、自分の部屋へと行ってしまう。詩音にとってはそれがありがたかったのだが、今日は違うようだった。どうやらすこぶる機嫌が悪いらしい。

 「おい、なんでいつまで経っても美味しい料理ひとつ作れないんだ?」

 詩音はぐちゃぐちゃに崩れた豆腐を見ながら、ただ黙っていた。

 「ちょっとこっちに来い!」

 父の憤怒ふんぬに満ちた声が詩音の心をガタガタとぐらつかせた。思わずびくりとしてしまう。詩音はみそ汁の匂いが手に残ったまま、父のそばへと近づいた。

 「今日は一日何をしていた?」

 父の質問の意図がよくわからなかったが、返事に時間を置かないほうがいいと判断した。

 「普通に学校へ行って、帰ってきたら部屋で本を読んでいた……」

 「それらの行動の中によ、俺が得すること、あるか?」

 「えっ……」

 得することとは何なのだろう、詩音はとぼけるつもりもなく、本当によくわからなかった。

 「俺はよ、朝から会社に行って、おまえが飯食えるように一生懸命働いてるんだよ。一方でおまえの行動はすべておまえのためだけだろうが」

 詩音はまばたきすらできないほどに硬直した。自分の生き方は間違っているとでも言いたいのだろうか。

 「高い学費まで払って学校通わせて、なんなら塾にまで通わせているのに、おまえときたらその恩恵にまったくありがたみを持っていないよな。むしろ、将来なんの役にも立たなさそうな小説ばかり読んでやがる。おまえの母親も、余計なものを残していきやがった。いっそのこと処分でもしてしまおうか」

 「それは駄目!」

 詩音はひときわ大きな声を発した。交通事故で亡くなった母が読んでいた本を、そうむざむざと処分されるわけにはいかない。自分のことを一番にしたってくれた母の大切な形見。

 「だったら、もっとまともなことをやれ!」

 父がもう一度テーブルを強く叩く。詩音の身体は無意識に肩をすくめ、細かく震えた。

 「いいか、おまえは俺がいなかったらなんにもできやしないんだ。その見返りを少しはしたらどうなんだ! なんもできないんなら、おまえは生きている価値なんてねえんだよ」

 父はそう言ってリビングの椅子を立ち、冷蔵庫のすみに置いてあった一升瓶を手に取ると、どこか別の部屋へ消えてしまった。

 詩音は膝から崩れ落ち、地べたに膝をつく。今日はまだ、暴力を振るわれないだけましだった。父は自分のためにお金を稼いできていると言っていたが、果たしてそうだろうか。たしかに学費なんかは頼らざるを得ないが、父が働いて稼いだお金はほとんど家庭に還元されてはいないはずである。実際に家へ帰ってくるのは日に日に減っていて、およそ、別の人と寝泊りをしているのだろう。そして、父の背後には怪しい組織がうごめいているのも勘づいていた。たまに父が黒色のいかにも高級そうな車で帰宅することがあったが、その車を運転している人はどれも強面こわもてで、とても一般の企業に勤めているようには見えなかった。

 詩音は何とか立ち上がり、しんなりとした雑巾を手に取って、後片付けを再開した。しゃがみながら床にこぼれたみそ汁を拭き、ふと顔をあげると、テーブルの端から、細いわかめがひょろりと垂れているのが目に映った。詩音は咄嗟とっさにある場面を想起した。何度も読んだ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。父はまるで蜘蛛の糸に登場する犍陀多かんだたのイメージそのものだった。凶悪きょうあくな罪を行い、死んでもなお、傍若無人なふるまいをする罪人。そして、自分はおよそ犍陀多の後を追いかける他の罪人と相違ない。すべては犍陀多の判断にゆだねるほかなく、そしてきっと、お釈迦様に見放されるのだろう。

 やがて、自重に耐え切れなくなったわかめは、ぽとりと下に落ちていった。

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