山川沙月の過去

 ちょうど曲のサビにさし掛かるところだった。

 「やめだやめだ!」

 ボーカルの叫び声がマイクを通してスタジオ内を反響する。沙月を含むメンバーが一斉に演奏を止めたため、とたんにあたりは静まり返った。

 「なんでうまく演奏できないんだよ!」

 ボーカルは積もりに積もった怒りを一点にぶつけている。

 その矛先は、沙月だった。

 「ご、ごめん……」

 「毎度毎度ここで調子がずれる! そのはずれた音が気にさわって気持ちよく歌えやしない」

 沙月はうつむきながら押し黙った。慣れた、という表現はおかしいが、音合わせのときは必ずと言っていいほど、今のような展開が訪れる。沙月は決まって無言でやり過ごすのだ。

 「みんなもさ、なんとか言ったらどうなの? 俺だけじゃないはずだよ、耳障りな音に不快感をこうむっているのはさ」

 スタジオ内には、沙月とボーカル、そのほかにベースとドラムがいた。二人ともボーカルの声に耳は傾けているものの、気まずいようにしながら目のやりどころを探している。いつもと同じ挙動だった。

 スタジオで演奏練習をしている最中、ベースやドラムが沙月に対して何の非難をすることもない。それもそのはずなのである。なにしろ、沙月は音なんてはずしていないのだから。

 沙月もずっと前からそのことに気付いている。ようは、ボーカルが間違っているのだ。おそらく、あまりうまく声が出なかったりだとか、それこそ音を外してしまったときなどに、そのままやり過ごすわけにはいかないが、どうにも自分のせいにしたくないらしい。だから、自分のことは棚に上げて、バンドメンバーの中で紅一点の沙月に責任転嫁    てんかをさせようとしているらしかった。

 しかし、そんなボーカルの横暴に抵抗する者は、いない。なにせ、ここに集められているメンバーはみな、ボーカルに弱みを握られているからだ。

 沙月はギターのボディーに手を当て、ゆっくりとなでた。私が好きな音楽はこんなものじゃないのに。目の前のギターが可哀かわいそうにこちらを見ている気がした。

 

 「おまえが中学受験の裏口入学を斡旋あっせんしていたことをリークしたら、おまえはどうなるんだろうな」

 初めてボーカルにこの脅し文句を言われたときから、沙月の人生はどん底へと急転していった。沙月は中学校の教師をしていて、ある年、中学受験の採点役を任された。その情報をどこから得たのか、ボーカルはどこからともなく現れて、自分の娘を合格させてほしいと懇願してきた。もちろん、沙月は断固として不正を行うつもりなんてなく、きっぱりと断るつもりだったが、ボーカルは幾度となく頼みこんできて、沙月の対応も段々とぞんざいになっていった。

 それが弱みを握られた原因だ。

 実際、ボーカルの娘は不正なんて行うまでもなく合格点に達していた。ボーカルの娘の実力でつかみ取ったのだから、これで一件落着かと思ったが、そう運命は甘くなかった。

 ボーカルの娘が入学してまもなく、ボーカルは再び沙月の前に現れた。

 「裏口入学、ありがとうございます」

 「裏口入学だなんて、そんなことはしてないです! あなたの娘さんは、自力で合格したんです」

 私は胸を張って反論した。しかし、ボーカルは一枚上手    うわてだった。

 「山川先生が私の懇願に曖昧あいまいな返答をしたとき、実はボイスレコーダーで録音していたんですよね」

 「えっ……」

 「俺の娘が実力で受かったかどうかなんて、ほとんどどうでもよかった。ただ、受かった以上、山川先生が不正を行っていたかもしれないという可能性が、このボイスレコーダーによって、はっきりと示されるんだよ」

 おそらくボーカルは、いざとなればボイスレコーダーを週刊誌やら教育委員会やらに送って、沙月の勤める学校に偽りの不信感をあおらせようとしているらしかった。学校としては、その原因となる教師を真っ先に排除しようとするだろう。つまり、沙月の人生を大きく揺るがすには十分足りる道具をボーカルは獲得していた。

 「さて、山川先生が俺に反抗しても、なんのメリットもないことはわかったかな?」

 沙月はそのとき、茫然ぼうぜんとして言葉を発することすらできなかった。

 「じゃあ、とりあえず、俺がボーカルをするバンドメンバーに入ってよ。ちょうど人手が足りないんだ。ギターは弾けるよね?」

 ボーカルは沙月のすべてを知っていて、すべて計画通りに進んだうえで話をまとめあげようとしたことを、沙月は今でも鮮明に思い出せる。


 「なに? なんか文句でもあるの? あるなら言えよ」

 ボーカルの鋭い視線が沙月とギターに突き刺さる。

 「文句なんて……ない……」

 「だよな、やっぱりおまえのミスだよな。もっと練習しろよ。どうせ暇なんだろ」

 教師という職業が暇ははずないだろう、沙月は心の中でしか反抗できない。こんな思いを口に出そうものなら、ボーカルの逆鱗げきりんに触れて、何をしでかすかわかったものじゃない。

 「なんか、やる気がそがれちまったな。今日の練習は終わりだ」

 ボーカルが乱暴にマイクの元を離れ、バッグが置いてある場所へと向かう。

 「おい、早く帰るぞ。お前をしっかり叱らなければいけない」

 ボーカルはスタジオ内を後にした。沙月は重い足をゆっくりと動かす。このあと、ボーカルは沙月の家にいつものように上がり込んで、ひどい仕打ちをするのだろう。ボーカルは自分の家庭に戻るつもりは毛頭ないらしく、沙月の家を浮気の住処すみかとしているらしかった。

 沙月はギターをケースにしまいながら、空虚な頭で考えた。自分は何を頑張っているのだろう。こんな生活が続くのなら、自分がまだ美しいときにこの世を去ったほうがいいのかもしれない、若くして亡くなった、あのロックスターのように。

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