武井緒乃花の過去
「話を聞いているのか!」
凄まじい怒号が飛ぶ。一瞬雲の隙間から
緒乃花は上司の目をじっと見つめながら、頭の中では上司が見ている自分の姿を想像していた。私がもし上司の立場だったらこう思うだろう。あなたは選択を間違ったのよ、と。
緒乃花が新入社員として働き始めた広告プロダクションである『クレアシオン』は、オフィスビルの10階に社を構えている。大手というわけではないが、中小企業からの広告依頼が多いらしく、そこそこ業績は良かった。緒乃花が就職先のひとつとしてこの会社にエントリーした時も倍率は高く、やはり広告代理店や広告プロダクションといった職を希望する若者は多いようだった。緒乃花は広告やキャッチコピーを考える職場ならどこでもよいと思っていたが、できるならば『クレアシオン』に就職したいと考えていた。理由はただひとつ、緒乃花が広告代理店を目指そうと思ったきっかけはあるキャッチコピーで、そのキャッチコピーは『クレアシオン』が手掛けたものだったからだ。
緒乃花が大学一年生のころである。そろそろ大学生活にも慣れてきたからアルバイトでも始めようかと思い、インターネットで自宅近くのアルバイト情報を探していた。
特にどこに就きたいという希望もなく、居酒屋であれば酔っぱらいの絡みが面倒そうだな、とかブラックバイトは避けよう、など漠然とした心持で表示画面をスクロールしていたが、ある個人経営塾の求人情報が目に
結局緒乃花は大学生活の四年間、塾講師としてアルバイトをした。はじめは子供たちに教えることなどできるのだろうかと不安に感じていた緒乃花であったが、仕事の
大学生活も残りわずかとなり就職活動をしなければいけないと感じ始めた緒乃花が、アルバイト帰りに書店に立ち寄って就活に関する本が並べられているコーナーを探していたときである。時期が時期のせいもあり、特設コーナーはすぐに見つかり、並べられている本を適当に取った。表紙には『やりがいのある仕事を!』と力強く印字されている。緒乃花はふと考えた。塾講師としての仕事はたしかにそつなくこなすことはできたが、やりがいがあったとは言えただろうか。『やりがいのある』というのはもっとこう情熱とか感慨とか……。
緒乃花はふとある言葉を思い出していた。その言葉は緒乃花が今のアルバイトに入る前にインターネットで見つけたあの心揺さぶる言葉である。
もしかすると自分は。塾講師という仕事柄ではなくあの言葉にエネルギーをもらったのかもしれない。あの応援とも挑発ともとれる言葉に応えようとしていたのかもしれない。あの言葉を考えたのは誰だろうと気になり、職場の先輩に電話をかけて尋ねてみたが、知っている先輩はいなかった。
後日、
あのときの判断が誤っていたのか……。
気が付くと上司が怒り心頭に
「おまえ、いま別のこと考えていただろう。上の人間の話もろくに聞けないからいつまでたってもこの有り様なんだよ」
続けざまに怒鳴られる。「すみません」、緒乃花はその言葉しか発することができなかった。いや、正確に言えば発しなければいけないと思っていた。相手の言葉に反論できないのは
言い訳をしていい訳はないのだ。
実際コピーライターとしての仕事は簡単なものではなかった。就職後、すぐにクライアントとの打ち合わせがあると上司に言われ、お前が担当しろと指示された。クライアントが求めている内容を端的にまとめたキャッチフレーズを100、200と考える。時にはマーケティング理論の本を読み、効果的な言葉を探したり、小説でいいセリフはないかと読み
「おまえが提出する案の中にピンとくるものがこれっぽっちもないんだよ。これなら一般人のキャッチコピーのほうがまだいいわ」
上司のわざとらしい語尾が緒乃花の寝不足の脳に突き刺さる。どうやら上司は『クレアシオン』で毎月開催している一般人対象のキャッチフレーズコンクールのことを引き合いに出したらしい。一般人が考えるキャッチコピーが広告を
「おまえがクライアントを喜ばせるようなキャッチコピー考えないから俺が頭下げる羽目になるんだよ。そしてクライアントに
緒乃花は口を意識して
「明日にでも辞表届を出してやるといった顔だな。でもおまえは辞めさせねえよ。おまえがこれまでに生み出した損失を立て直すまでは、おまえに働いてもらわないとな」
あからさまなパワハラではないか。緒乃花は周りを見渡した。社員のデスクがフロア全体に広がっていてパソコンで作業を続けている社員がいる。上司はそれなりの声で怒鳴り散らしているわけだから聞こえていないはずはないのだが、緒乃花の耳に届くのはキーボードを叩く音だけであり、「それパワハラじゃないですか?」と言うことはおろか目をこちらに向けようともしなかった。まるで社員は、上司が一人で会社の不満を垂れ流しているのを見流すようである。誰も私がいることに気づいていないのかもしれない。
緒乃花は上司の顔に視線を戻した。
「損失しか生まないおまえでもな、うちは雇ってやっているんだよ。ありがたいと思えよ。だから今までの汚名を挽回してみろよ」
不気味な笑みを含みながら上司が緒乃花を見下している。いや、私は立っているのだから視線は見上げているに違いないが、心の中では見下している。そんな
『汚名は挽回するものじゃないですよ。返上するものですよ』。
緒乃花はただひと言「よろしくお願いします」といい、深く頭を下げた。
上司は
緒乃花は自分のデスクには戻らずにそのまま女子トイレへと向かった。入口から一番遠い、孤立した個室トイレの中に入る。ポケットから鏡を取り出した。
「私って、本当にいるんだよね?」
緒乃花は鏡に向かって自問自答することしかできなかった。
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