菅原詩音の現在

 うだる熱にさいなまれながら、菅原すがわら詩音しおは自分の部屋でセーラー服に着替えていた。白と紺を基調とした夏用のセーラー服は、私の生物的な湿り気とは対照的にさらさらとした肌触りだった。いつもスカートは膝丈ひざたけより少し低いくらいに合わせていたが、今日くらいもっと短くしていいだろう。上着をかぶり、脇のファスナーをめ、赤いスカーフを結ぶと、詩音はひと息ついた。これで準備万端だ。あとは……。詩音は両膝をたたみながら箪笥たんすの下のほうにしまってあった太いロープを引っ張り出した。これを……。天井に前もって設置しておいた金具に結び、つける。手を伸ばしただけでは金具に届かないから、学習椅子の上に素足であがった。よし……。ロープの金具に結び付けられていないほうの一端で輪を作る。できた……。詩音はそれほど重労働をしたわけではなかったが胸が上下に揺れていた。セーラー服と肌が汗によって所々くっついているのを感じる。

 この暑さは夏を待ちわびた太陽のせいなのか、死におののいた自分のせいなのか。詩音は両手でロープの輪を持ちながら部屋の片隅に視線を移す。そこにはうずたかく積まれた本の山がそびえていた。実際、その山の中に本棚があるはずなのだが、大量の本に埋もれたまま、その役割を果たせずにいる。それほどに本があった。

「それにしても首吊り自殺なんて、小説だったらベタ中のベタね」

 詩音は感想をひとりごちる。ありきたりな小説があまり好きではなかった詩音は、自分がこれからする自殺はあまりにもありきたりであることに恥ずかしくなり、頬に熱がこもった。こんな自殺じゃ、芥川さんに笑われるわ。詩音は一番敬愛する文豪を思い浮かべた。でも、よく考えたら芥川さんも服毒自殺じゃなかった? その自殺もなかなか平凡ね。詩音はぼんやりとした不満を抱いた。

 本の山には実に様々はジャンルが積まれている気がした。氷山ならぬ本山の一角には『自分の心がわかる心理学』と背表紙に書かれた本がある。これはたぶん役に立たなかっただろう。その隣には『初心者にもわかる刑法』と渋い文字で書かれた本もあった。たしかこの本に自殺についてのコラムがあったな。『自殺は自分を殺すことだから刑法199条に当てはまり殺人罪になる。罪人になりたくないなら自分を殺すな』と熱弁していたはずだ。なるほど、自殺はいけないことだなと小学生の時に学んだはずだが、その数週間後に別の法学書で『自分の命をどう使おうが勝手だろ』として自殺を不可罰としているのを見つけ、もうどうでもいいやと諦めた気がする。

 詩音は再びロープに視線を戻した。果たして首が吊られた私はどんな姿になっているのか。ある小説には口から泡があふれ体全身が痙攣けいれんすると言っていたし、別の小説ではろくろ首のように首が長くなるとも記されていた。いずれにせよみったくないな、と思うと同時に死後の自分を想像する余裕がある自分はとことん阿呆あほうだなとも思った。

 ロープの輪をゆっくりと首にかける。首筋から全体温が吸収されたのか詩音の体はブルルと身震いした。

 足を椅子から離そうか、そう決断しようとしたとき、窓の向こうからやかましい警報機の音が聞こえた。自宅近くに踏切があり、この家もよく音を通すものだから、無作法に私の部屋にお邪魔してくる。詩音はふと窓の外を見やった。そしてすぐに目を見張る。線路上に奇妙な光景が敷かれていたからだ。白いワンピースの女性が線路上に突っ立っている。顔はよく見えないが肌の白さだけは確認できる。そのそばには白いミニワゴンが停まっていた。誰も降りる気配はない。映画撮影でも行われているのだろうか? とも思ったが、カメラや監督の気配は皆無だった。もしかして、私と同じ気持ちの者だろうか。詩音は窓から声を張り上げようか迷った。

 『自殺するなら人に迷惑のかからない死に方をしなさい! 例えば首吊り自殺とか!』。

 でも、そんなことを考えている間に電車が迫っているのが確認できた。かなりのスピードが出ていて、これは止まりそうにない。詩音はいつの間にか首にかけられていたロープをはずし、窓に手をついていた。

 『逃げて!』

 心で叫んだのと同時に、白い影が線路上に向かっていくのを見つけたものだから、てっきり自分の思いが擬人化したのかと思った。女性が助けられる一部始終を見送る。電車は何事もなかったように同じ速度で離れていった。

 遮断機が横から縦になる。白いミニワゴンそっけない顔で走っていった。踏切の脇に白い影と女性が倒れている。白い影はよく見ると白いシャツを着た男性だった。髪が適度に短いのが身の軽やかさを感じさせる。

 詩音は安心したせいかその場に膝を折って座りこんだ。足元に一冊の本が落ちている。表紙にはお釈迦しゃかさまのような人が細長い糸を吊り下げている姿が描かれていた。

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