■両親の想い
「お骨はね、四十九日の法要が終わってからお墓に入るの」
稲村志穂の母親、和江からそう聞かされて、薄井は恐縮した。一般常識を知らなかった自分が恥ずかしい。それは琴子も同じだったようで、彼女は座布団の上で正座したまま、顔を赤くして俯いている。
薄井と琴子は、稲村家の座敷に通されていた。部屋の奥にある仏壇では、先ほど薄井が立てた線香が、細い煙を昇らせている。最初に薄井が手を合わせ、琴子が次に。その後で和江が緑茶を出してくれ、火葬から納骨までの流れを説明してくれたのだった。
それにしても。
「勝手に押し掛けた上に、手ぶらで申し訳ありません」
被害者の実家を訪問するつもりが無かったとはいえ、準備があまりにも不十分だった。思い付きで行動するから、こういうことになるのだ。
「いいのよぉ、あの人が勝手に連れてきたんだから」
和江は苦笑して手を振る。一方、その夫は店舗に出ていた。娘の死が知らされてからまだ五日なのに、店を開ける精神力には恐れ入る。
「あなたたち、志穂のお墓参りに来てくれたのよね。ありがとう」
夫からは何も知らされていないのに、和江は察してくれたらしい。長年連れ添った夫婦ならではの、
「でもまさか、本当に来てくれるとは思ってもみなかったわ。まるでドラマみたい」
和江は刑事ドラマのワンシーンを思い浮かべているようだ。年配の刑事が被害者の家を訪ね、仏前に手を合わせるというお決まりの場面である。
「この調子じゃ、本当に銃で犯人と撃ち合ったり、取調べでカツ丼出したりしてそうね」
和江は刑事ドラマが好きらしい。古今東西のお約束を的確に突いてくる。
「いや、そんなことは……無いんですが」
相手の勢いに圧倒されてしまう。このまま話のペースに飲み込まれてしまいそうだ。
「あら、そうなの。新人の女優さんみたいに可愛い子連れてるから、てっきりそうだと思って」
和江は口に手を当てて笑う。やけに声が大きく聞こえるのは気のせいだろうか。
「ねぇ。この子、本当に刑事さんなの?」
そう言って和江は、琴子の方を見た。
「あなた、いま何歳?」
俯いていた琴子が顔を上げ、答える。
「二十五です」
そこで妙な間があった。
「……そう、志穂と同い年なのね」
若干、勢いは削がれたが、和江の質問は続く。
「まだ若いのに偉いわね。お仕事、大変なんじゃない?」
「いえ、大丈夫です」
琴子が穏やかに微笑んだ。
「変な人に意地悪されてない?」
「皆さんいい方ばかりですから」
「そう、良かったわねぇ。辛い時にはちゃんと相談するのよ」
「はい」
「あっ、そうそう。ちゃんとご飯は食べてるかしら?」
「はい。しっかり食べないと元気が出ませんからね」
「うんうん。栄養のバランスを考えて食べないとね」
「そうですね、気を付けます」
薄井は違和感を覚えた。会話の雰囲気が少しずつ変化している。これではまるで――母と娘の会話ではないか。
「あの……」
薄井が割り込もうとすると、琴子が目配せした。このまま会話を続けるつもりらしい。
「夜はちゃんと眠れてる?」
「最近はちょっと寝不足ですけど、まだ辛くはありません」
「あらあら。お仕事頑張るのも大事だけど、体には気を付けてね」
「ご心配ありがとうございます」
「寝不足は美容の大敵だって言うしね」
「おっしゃる通りです」
そのとき唐突に、琴子の意図が解った気がした。
恐らく和江は、琴子に自分の娘を重ね合わせているのだろう。娘が生きていたら言いたかったことを、娘と同い年の琴子に話しているのだ。その様子はまるで、失った娘との時間を取り戻そうとしているかのようだった。
琴子はそれをいち早く感じ取ったから、和江の話に付き合うことにしたのだろう。
「若い頃はいっぱい頑張っちゃうけど、無理はしなくてもいいのよ。辛いのを我慢し続けると、体は大丈夫でも、心が参ってしまうから」
「はい」
「前ばかりを見てないで、時には振り返りなさい。あなたの周りには、助けてくれる人が必ずいるわ」
「……はい」
「今は若い子たちが仕事で心を病んでしまう時代だけど、病んでしまう前に助けを求めなさい。職場や世の中が助けてくれないなら、親元に戻ってこればいい。帰る場所は、ちゃんと用意してあるからね」
琴子は頷く。
「親はいつだって、子供を思ってる。たとえどんなに離れていても。……だから遠慮しないで」
和江の目から、ひとすじの涙が流れた。
「親は、子供が元気でいてくれたらそれでいいの。生きてさえ……生きてさえ、いてくれれば……」
琴子が和江に寄り添う。泣き崩れる母親の背中をさすりながら、何度も頷いた。
どれだけそうしていただろうか。やがて和江は、涙を拭きながら身を起こした。
「……ごめんなさいね。こんなおばちゃんがメソメソして」
琴子は首を横に振る。
「今でも……ひょっこり帰ってくるんじゃないかって……考えてしまうの。頭の中では、二度と志穂が帰ってこないって解ってるくせに、どうしてもあの子の帰りを願ってしまうの」
返す言葉が見つからない。
「あの人もそう。お客さんがいないときは、ずっとああしてるの」
ドアの隙間から、カミソリを
「あの人は動き続けていないと、現実に押し潰されてしまうのよ。お店を開けているのも、仕事に打ち込んでいればその間だけは忘れることができるから。毎日お墓を掃除しに行くのも、沈みそうな心を紛らわせる為なのよ」
束の間の現実逃避という訳か。しかしどうあっても現実からは逃れられない。稲村にとって墓掃除は、娘の死を受け入れる為の準備なのかもしれない。
そのとき和江は、何かを思い出したようだった。
「そういえば、ごめんなさいね。あの人は不器用だから大したお構いもできなくて。気難しい人だと思ったんじゃないかしら?」
霊園で会った時のことを言っているのだろう。
「そんなことはありませんよ。ご主人は私たちを案内して下さいました。きっと心の優しい方なのだと思います」
琴子が答えた。
「そう言って貰えると助かるわ。ああ見えて、家族思いなところもあるのよ。娘を一番気にかけていたのも、きっとあの人だわ」
和江が遠い目をする。
「志穂が家を出て以来、あの人はずっと連絡を待ってたはずよ。口には出さないけど、私には解るもの。親子喧嘩の末に『出て行け』と言ってしまった手前、自分から歩み寄るわけにはいかなかったんでしょうね」
当時の情景が思い浮かぶようだ。父と娘、お互いに同じ道を歩むからこそ意見が食い違う。昔ながらの職人と、負けず嫌いな努力家が一つ屋根の下にいれば、衝突することも多々あっただろう。
「あの人が『出て行け』と言ったら、あの子は『じゃあそうする』って。それきり盆も暮れも正月も、一度だって帰ってきたことは無かったわ」
稲村志穂が挫折したにも関わらず帰省しなかったのは、親譲りの意地があったからなのかもしれない。
「便りが無いのは無事の証拠だと自分に言い聞かせてきたけれど、やっぱり心配なものは心配。だから私、主人に隠れて携帯からメールしてたの」
薄井は顔を上げた。
母と娘が連絡を取り合っていたという情報は、今までに無かったはずだ。
刑事としての思考が急速回転を始める。
「……お母さん、志穂さんとの連絡はどれくらいの頻度でされていましたか?」
不意の質問に、和江は目を丸くする。
「連絡といっても……ほとんど私からの一方通行よ。あの子、忙しいみたいで、なかなか返信が無いのよね」
「それでも一応は返信があった?」
「ええ。だけど、数えるほどしかないわよ」
「最後に返信があったのはいつですか」
「ええと……ちょっと待ってね、携帯持ってくるから」
和江は台所に行き、間もなく戻ってきた。
「最後は八月みたいね」
と言って、彼女は携帯電話の画面を薄井に見せた。
〔お久しぶり。仕事は順調です。そう言えば、懐かしい人に会ったよ。〕
メールを受信した日付は、二〇一七年八月二五日。稲村志穂が死体となって発見された日の三ヶ月前だ。
「『懐かしい人』とは誰でしょうか?」
薄井が尋ねるも、和江は首を横に振る。
「私もそれが気になってね。誰のこと? ってメールしたけど、返信が無いのよ」
結局、誰のことか分からずじまいらしい。
「いつもこんな感じなのよ。たまに返信があっても短い内容だけで。忙しかったからなんだろうけど……」
「そうですか……」
新しい手がかりと思って掘り下げようとしたが、早くも途絶えてしまった。
「わざわざメールで送ってくるぐらいだから、ひょっとしたら『いい人』が見つかったのかもしれないと思ったんだけどね……」
今年の八月といえば、稲村志穂はまだ辰見と交際を続けていたはずだ。二人が出会う以前から接点があったという情報は無いので、辰見に『懐かしい人』という表現は当てはまらない。母親に対してこのような表現を使うということは、和江が知っている人物の可能性がある。
「誰か、心当たりはありませんか?」
薄井からの質問に、和江は首をかしげるだけだった。
「うーん……同級生の友達かしらねぇ……何人かは東京へ働きに行ってると思うんだけど……」
答え方からすると、明確な心当たりは無さそうだ。やはり人物の特定は難しいらしい。
「お母さん。一つ、お願いしても宜しいですか」
いきなり、琴子が発言した。
「……いいけど……どうすればいいの?」
和江は半信半疑である。
琴子はというと、先ほどまでの遺族を
「ありがとうございます。それでは――」
そして琴子は、透き通るような声で、こう言ったのだった。
「志穂さんのアルバムを見せて下さい」
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