■琴子は一人で

 今夜の中目黒警察署は平穏らしい。薄井は正面玄関から入り、捜査本部が設置されている剣道場へ向かうが、署全体がひっそりと静まり返っているのが分かる。

 署まで来たのは、泊まり込もうと思ったからだ。時刻はもう午前〇時を回っている。終電までにはまだ時間があるが、誰も帰りを待っていないワンルームマンションまで、わざわざ帰る気にはなれなかった。

 剣道場の扉を開くと、中は暗く、人気ひとけが感じられなかった。きっと他の捜査員は帰宅したか、別室で休んでいるのだろう。

 どこか適当なスペースでも見つけて眠ろうか、そう考えながら視線を巡らすと、道場の角から明かりが漏れていることに気付いた。

 道場の角が衝立で囲われ、小さな部屋が作られている。衝立をずらして中を見ると、ノートパソコンの電源が入ったままになっていた。パソコンの画面には防犯カメラの映像が表示され、今は一時停止になっている。この映像には見覚えがあった。〈スターメゾン中目黒〉の五階共同通路を撮したものだ。

 パソコン画面から視線を上げると、壁に防犯カメラの設置場所が記された見取図、その右横には五〇三号室の見取図がそれぞれ貼られていた。

「……はい、先ほどはどうも」

 道場の外から女性の声が聞こえた。誰かと話している様子だが、相手の声が聞こえないので、電話でも架けているのだろう。

 声が段々近づいてきた。

「ええ……この度は本当にすみませんでした。……いえ、鷹野さんこそ。それでは失礼します」

 通話が終わったらしい。間もなく声の主が道場の中に入ってきた。

「あら、いらしてたんですか」

 姿を見せたのは、琴子だった。彼女は一瞬、目を見開いたが、すぐに困ったような笑顔になった。

「薄井さん、大変でしたね」

 その一言で、自分の失態が既に知られていることを察した。さっきの電話は鷹野への謝罪だったのだろう。部下がしたミスは、上司が責任を取らなければならない。それは勤め人なら誰でも知っていることだ。

「申し訳ありませんでした」

 薄井は深々と頭を下げる。実務経験と年齢でいえば自分のほうが上なのに、ただ階級が上だという理由だけで琴子にも責任を負わせてしまった。そんな自分のふがいなさが心底悔やまれる。

「いえ、私は大丈夫です。それよりも薄井さん、力が及ばなくてごめんなさい」

 逆に彼女から謝られた。理由を聞くと、琴子はこう答えたのだった。

「引き続き、同じ担当を続けられるようにお願いしたんですけど……ダメでした。鷹野さんでも庇いきるのは難しいと……」

 鷹野には殺人犯捜査第七係の係長という立場がある。他の係の人間に肩入れするにしても限界があるのだろう。

「それならせめて、〈特別室〉本来の業務に戻しますからと……それで納得して頂きました。私ではこれが精一杯です、ごめんなさい」

 琴子は尚も謝るのだった。

「いえ、自分が悪いんですから。まだこの事件に関わらせて貰えるだけで御の字です。重ね重ね、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、私もすみませんでした」

 お互いに頭を下げ続けるので、このままでは話が進まない。薄井は気になっていたことを尋ねた。

「ところで。そちらは何をしてたんですか?」

 琴子は上下ともにグレーのスウェットを着ていた。その上に黒のジャージを羽織り、長い髪はボサボサだ。化粧もしておらず、普段のような華やかさが全くない。これではまるで、試験当日を間近に控えた受験生だ。

「ああ、寒くなってきたので暖かい飲み物を」

 彼女はカフェオレの缶を見せた。一階の自販機で買ったのだろう。

「いえ、そうではなくて。一人で防犯カメラの映像を観てたんですか?」

 質問し直されて、琴子はばつの悪そうな顔をした。

「ごめんなさい。私、頭働いてなかったですね」

 そう言うと、大きなあくびをした。表情に疲れが見える。背筋もこころなしか丸まっているようだ。

「えっと、そうです。防犯カメラ映像の精査が私の仕事なので、そればっかりやってました。映像の中に、密室の謎を解く鍵があるはずなんです」

「こんな時間まで、ずっとですか?」

 琴子は頷く。

「はい。気付いたらこんな時間になってたみたいで」

「もしかして、三日前から?」

「ええ」

 驚かされた。彼女は事件発覚の翌日から今日までの間、たった一人で映像を観続けていたのだ。

「あの……ちゃんと睡眠は取ってますか?」

 純粋に彼女の体調が心配だ。

「はい。時々、机に突っ伏してますから」

 それはただの『うたた寝』だ。少し眠ったといっても、疲れが取れるとは思えない。

「じゃあ、交代しましょう。その間、少しでも休んで下さい」

 恩返しというわけではないのだが、彼女の助けになればと思ってそう提案した。

「いえ、その……」

 彼女は何か言いにくそうにしている。

「薄井さんを信用していないわけじゃなくてですね……何というか、これは私がやらないといけないことなんです」

「どうしてですか?」

 琴子はまっすぐな瞳で薄井の顔を見た。

「密室の謎を解くのが私の責務です。誰かに頼るのではなくて、自分の力でやりたいんです」

 彼女は譲らなかった。ふわふわしているように見えて、実は頑固。琴子の性格が段々わかってきた気がする。

 刑事という生き物は、得てして頑固者だ。自分の信じた道を、何があろうと自分の足で歩きたがる。そのため意見の衝突は日常茶飯事だ。

 だがその反面『必ず事件を解決してみせる』という使命感は共通している。琴子にもその片鱗があるようだ。

「……わかりました。じゃあ、お付き合いします。一人だと眠気をこらえるのも大変でしょう」

 自分も頑固者だ、と薄井は自嘲する。口ではそれらしいことを言っているが、単純に女性一人を残して自分だけ休めないという男としてのプライドが付き添うことを選択した。

「そうですね、お願いします」

 彼女もこちらの考えを察したらしい。衝立をずらして二人分のスペースを作ると、手招きした。薄井は近くにあったパイプ椅子を運び込むと、琴子の横に腰かけた。

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