■ここから二人で

「再生しますね」

 琴子がマウスをクリックすると、映像が動き出した。

 映像の中で、ドレスアップした稲村志穂が共同通路を歩いている。そして彼女は、一人で五〇三号室に入っていった。事件が発覚した当日に、川上と二人で観たものと同じ内容である。違うのは再生速度だった。あの時は十六倍速だったが、今は等倍再生、つまり『早送りなし』である。

「もしかして、ずっとこの状態で観てたんですか?」

 薄井は呻くように言った。当然ながら、この場合は一時間かけて撮影された映像を観終わるのに一時間かかる。被害者が帰宅してから死体となって発見されるまでには約二日かかっているので、映像を停止せずに観たとしても、全ての内容を確認するにはそれと同じだけの時間を要する。途方もない時間のかかる、そしてとてつもない忍耐が求められる作業だ。

「はい。映像のどこにヒントが隠されているか分かりませんので、くまなく観ています」

 琴子は事も無げに言う。なるほど優れた集中力と根気だ、彼女が国家公務員総合職試験を一発合格しているのも頷ける。

 こんなことを三日も続けていたのか。薄井は自分も〈特別室〉の室員であるにも関わらず、上司に全ての仕事を押し付けていた己を恥じた。時間のかかる作業だから、彼女は睡眠時間を削ってでも先に進めようとしていたのだろう。そのぶん疲れは相当たまっているはずだ。それでも彼女はパソコン画面を凝視している。

 何が彼女にそこまでさせるのか。ただの意地や負けん気ではない。彼女は薄井と違う次元で、別の想いを抱いているようだ。そう考えると、琴子が別世界の人間に思えてくる。

 薄井は、隣に座っている琴子の横顔を盗み見た。可愛いらしさの中に知的な雰囲気を持つ顔立ちだから、女子アナでもやっていたら間違いなく人気が出ていただろう。しかも彼女は優れた頭脳を持つ才女である。その気になれば、どんな職業にでも就けたはずだ。

 そんな才色兼備の彼女が、今は華やかさから程遠い格好をして、パソコン画面と向かい合っている。各業界の人事担当者が今の琴子を見たら、口を揃えて「勿体ない!」と嘆くことだろう。

「……あの、聞いてもいいですか」

「はい、何でしょう?」

 琴子はパソコン画面を見たままだ。声の調子はいつもと変わらない。

「室長は、どうして警察官になったんですか?」

 その時、彼女が振り向いた。思いのほか顔が近かったので、薄井は背筋を伸ばして誤魔化しつつ、顔を遠ざける。

「薄井さん……堅苦しい呼び方は禁止って言ったじゃないですか」

 琴子の膨れっ面を見て、そういえばそうだったことを思い出した。

「す、すみません……」

 彼女に謝るのは、もう何回目だろう。

「『琴子さん』」

 彼女が自分で自分の名前を口にする。

「はい、どうぞ」

 少し悪戯っぽい笑みがそこにあった。自分が言ったように名前を呼べという意味らしい。

「そ、それは……」

 勘弁して下さいと言いたかった。単純に恥ずかしいし、誰かに聞かれたらと思うと口に出せない。何より、彼女の名前を呼ぶことで、線引きしていたものが崩れていくような気がした。

「ほら、言ってみて下さい」

 尚も要求する琴子に、薄井は口をつぐむ。自らの犯行を自供するかしまいかと悩む犯人の気持ちがよく解った。

「恥ずかしいのは最初だけですから」

 そうやって期待の目を向けないで欲しい。決心が揺らいでしまうじゃないか。

 薄井は首を横に振る。これが最後の抵抗だ。次の一手が来たら、どう返していいか思いつかない。

 そんな薄井に、琴子はこう囁いたのだった。

「……今なら誰もいませんよ」

 彼女の言葉は、薄井の胸を正確に貫いた。誰にも聞かれないなら、名前を呼んでも冷やかされる心配は無い。馴れ馴れしい、と苦言を聞かされることも無いはずだ。

 ――いやいや、その気になってどうする。危うく彼女の術中にはまるところだった。

「そうですか……じゃあ仕方ないですね」

 琴子が目線を下げた。こころなしか残念がっているように見える。彼女はパソコン画面に向き直り、映像の精査を再開した。

 待てよ? と、薄井は思い直した。

 琴子が役職名で呼ばれるのを嫌うのは、彼女が自分を力不足だと考えているからだった。しかし、ここまで名前を言わせることにこだわる理由が解らない。何か別の意図があるのだろうか。

 そういえば彼女は、自分の恥――密室に対して性的興奮を覚えてしまうこと――を話すことで、部下との距離を縮めようとしていた。だったら、名前を呼ばせようとするのも、部下へ歩み寄る為なのかもしれない。

 だとしたら、このまま意地を張るのは得策ではない。彼女から近付こうとしてくれているのに、突っぱねるのも悪い気がした。

 そうだ、これは上司と良好な関係を保つ為に必要なことなのだ。幸い今は他に誰もいないし、一度呼べば彼女も納得するだろう。聡明な女性だから、公私の区別は弁えているだろうし、さっきのやりとりも一時の戯れに過ぎない。自分の気持ちさえ整理できていれば、名前を呼ぶくらい難しくないはずだ。

 そう考えた薄井は、意を決して口を開いた。

「あの……こ、琴子……さん?」

 彼女が振り向いた。今までの疲れが吹き飛んだような顔をして。

「そうそう、その調子ですよ薄井さん!」

 琴子が無邪気に笑う顔を見て、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。彼女が喜ぶのを見るのは嬉しいが、頭が沸騰したようになってしまい言葉が続かない。

「やっと呼んでくれましたね。それじゃ、お話ししましょうか。私が警察官になった理由を」

 満足げな声色で、琴子は語り始めたのだった。

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