■遺体の引き渡し
稲村志穂の両親が中目黒警察署に到着したのは、午後十時を回った頃だった。
父親は厳格な人物だと聞いていたが、見た目からしてそのような雰囲気を纏っている。切れ長の目に鷲鼻、口を固く結び、いかにも職人
一方、母親は柔らかな顔立ちで、ふくよかな体型をしているから、包み込むような優しさを醸し出している。今は目に涙を浮かべて、泣き出しそうなのを何とか
そんな二人を中目黒警察署の刑事が案内する。本部系列の捜査員は、薄井と琴子しかいない。他の部署の捜査員たちは、明日以降の捜査方針について打ち合わせをしている。
薄井が遺体の引き渡しに立ち会うと決めたのは、かつての上司の教えを守る為だった。死体の前では必ず手を合わせるよう教えてくれたのもまた彼だった。元上司は死者の尊厳を重んじる刑事だったから、薄井が死体や遺族への配慮を怠った場合は、鬼のような形相で怒声を放つのだった。初めはそれが恐くて仕方なかったものの、気付けば死者への礼節が身に付いていた。あれからもう五年以上経つが、新人時代に根付いたものは、なかなか忘れられないものだ。
稲村夫妻に同行し、中目黒警察署の裏手にある霊安室へ。所轄の刑事が扉を開くと、中から冷気が流れ出てきた。
部屋の奥には、身体に白い布団が掛けられ、顔に打ち覆いの布を被せられた遺体が安置されている。稲村志穂の亡骸だ。
所轄の刑事が稲村夫妻を中に招き入れ、遺体を前に合掌した。薄井と琴子も手を合わせ、頭を垂れる。
刑事によって打ち覆いの布が取り除かれ、稲村志穂の顔が見えるようになると、母親の表情が途端に崩れた。まぶたと眉根、鼻の両側に深い皺が刻まれ、わななく口から絞り出すような吐息が漏れる。遅れて、両目から涙が溢れた。
「……ごめんね……ごめんね……」
母親は娘の頬に触れ、そう囁いた。最初に口にしたのは悲しみでもなく、怒りでもなく、謝罪の言葉だった。
視線を父親に移すと、表情にはそれほど変化がない。だが薄井は、父親が歯を食い縛る瞬間を見逃さなかった。
「娘さんに、間違いありませんか」
中目黒警察署の刑事が聞いた。身元を確定する必要性から尋ねたのだが、この瞬間が一番辛い。薄井も新人時代から幾度となく経験してきたが、遺族に対して肉親の死という現実を突きつけているような気がして、胸が張り裂けそうになる。
「……はい……間違い……ありません」
嗚咽が漏れそうになるのを抑えながら、母親が答えた。間違いであって欲しいという願いを、自ら否定しなければならないこの時、母の心痛は想像を絶することだろう。
母親は娘の手を握り、自らの頬に押し付ける。流れた涙が冷たくなった手を伝い、コンクリートの地面に落ちた。
「この度は、大変ご迷惑をおかけしました」
父親が初めて口を開いた。彼は頭を深々と下げ、ゆっくりと上体を起こす。目は赤く充血している。その瞳には怒りとも哀しみとも取れない光が宿っていた。
父親の謝罪に答えられる者はいない。そもそも、彼が謝る必要など無いのだ。
「母さん、行こう。警察の方に時間を取らせてはいかん」
娘の側から離れようとしない妻に、夫が呼び掛ける。離れたくないのは自分も同じだろうに、気丈であろうとするのは父親としての責任感からか。夫に手を引かれ、妻はようやく娘から手を離した。
遺体は葬儀社の職員によって白装束に着替えさせられ、納棺された。そのまま搬送車に載せられると、職員の手によってバックドアが閉じられた。
搬送車が出発する頃になり、被害者の父親が一人、車外に残った。
「……娘のことを、どうか宜しくお願いします」
そう言って彼は、再び頭を下げる。ほとんど直角と言っていいほどだ。長い一礼の後、父親は顔を見せることなく車に乗り込んだ。
車が動き出し、警察署の敷地外へと出ていった。車が見えなくなると三々五々、解散となる。薄井も引き上げようとした時、琴子がその場から動かないことに気付いた。
「どうかしましたか」
声を掛けてみて、彼女が涙ぐんでいると分かった。被害者の両親に感情移入してしまったのかもしれない。
「薄井さん、これを」
鼻声で言いながら、琴子が地面を指差した。そこには二つばかり、水滴の落ちた痕跡があった。
薄井は、はっとした。この場所は、先ほど稲村志穂の父親が立っていた場所だ。彼が一礼したまま、しばらく顔を上げなかったのは、恐らくそういうことなのだろう。
「お父さんの最後の台詞、娘さんを託せる殿方に言いたかったでしょうね……」
そう呟く琴子は、遥か遠くを見ていた。
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