■関係者からの事情聴取1
薄井が向かったのは、稲村志穂の勤務先である。生前の彼女が、職場で何かしらの痕跡を残していないか調べる必要がある。
一人で向かったのではない。相勤者として鷹野が指名したのは、徳田という見た目五十代のベテラン捜査員だ。短く刈り込んだ髪には白いものが混じり、顔は真四角だ。だが不思議と威圧感は無いので、穏やかな性格の持ち主なのかもしれない。
中目黒駅の一つ隣、代官山駅で電車を降りた。そこから歩いて十分ほど行った先に、〈begin〉という看板の掲げられたヘアサロンが見えた。ここが稲村志穂の生前の勤務先である。
店舗の外観は、白をベースにオレンジ色の装飾が施され、清潔さと活力を感じさせる。店内の客層を見ると、二十代から三十代の女性が多い。薄井はふと、琴子もこういった店で髪を切るのだろうかと想像した。
ちなみに彼女は今、本庁舎に戻っている。着替えと必要な資料を、捜査本部が設置された中目黒警察署へ運ぶ為だという。
店舗のドアを押し開くと、途端に『場違い感』が押し寄せてくる。こちらは地味なスーツとコートを着た短髪の男二人、あちらは色とりどりの頭に洒落た服装だ。そういえば稲村志穂も、発見時はドレスを着ていた。こういう職場で働いていると、自然に美意識が養われるのだろうか。
三十代前半の男性が歩み寄ってきた。
「お待ちしてました。事務室へどうぞ」
そのまま別室に通される。事前に連絡を入れておいたので、姿を見て薄井たちが刑事だと分かったのだろう。
事務室では、それぞれが簡素な椅子に座って向かい合う。こうして男三人で三角形を作ると、部屋が狭く感じられる。薄井は真横にあるパソコンに触らないよう注意を払った。
まずは警察手帳を見せて名乗る。徳田も無言で従った。このベテラン刑事は、若手の積極性に任せる指導方針のようだ。
相手の男性は
「それで、志穂……いえ、稲村さんは」
なぜ呼び名を言い換えたのだろうか。疑問に感じたが、今は話の流れを優先させることにした。
「残念ですが、既に」
ここまでにとどめておく。相手も察したようで、奥歯を噛み締めるのが見えた。
「そうですか……」
とだけ言うと、八代は俯き、右手で両目を覆った。
「すみません、少し」
八代は体を震わせる。か細い息を吐き、嗚咽をこらえようとしていた。
人の死を告げるのは苦手だ。薄井はそう思う。自分も相手に感情移入してしまうのだ。
「……失礼しました。どうぞ」
八代が顔を上げた。目は赤く、涙も浮かんでいる。それでも捜査に協力してくれるのはありがたいことだ。
「この度はお悔やみ申し上げます。現在のところ、警察としては事件か、そうでないかを捜査しているところです」
「事件というと……彼女、殺されたんですか!?」
過敏に反応してしまうのは仕方ない。事件と聞いて平静を保てる人間はそれほどいないはずだ。
「いえ、まだそうと決まったわけではありません。今はまだ捜査中なので、何とも言えませんが」
薄井としては殺人事件だと考えているが、今の段階ではまだ推測でしかない。不確かなことを話して関係者の混乱を招くのは得策ではないだろう。
「ところで、最近、稲村さんに何か変わったことはありませんでしたか?」
聞き込みの際の常套句だ。敢えて曖昧に質問することで、相手が犯人しか知り得ないことを漏らす場合が
「いえ……特に、ないと思います」
「たとえば、何らかのトラブルに巻き込まれていたとか」
そこで八代は少し考えるそぶりを見せた。
「いえ……思い当たりません。彼女、人から恨みを買うような子じゃありませんでしたから」
八代の返答に、生前の彼女に関する情報が含まれていたので、そのまま続けるよう促した。
「彼女は、『夢』に生きる人でした」
八代は語る。
稲村志穂は群馬県の出身で、高校を卒業後は地元の美容専門学校に通っていたそうだ。幼い頃から美容師になることが夢だったようで、専門学校を出てからは自分の店を持つことを目標に、単身で上京したという。アルバイトを掛け持ちして生活費を稼ぎ、その傍ら美容師としての技術を磨き続けた。
しかし夢を叶えるには相応の苦労があったようだ。幾多の挫折を経験した彼女は、精魂尽き果て実家へ帰ることも考えたという。そうした矢先に見つけたのが、この店だったそうだ。
「彼女、〈begin〉って名前が気に入ったらしいんですよね。『私の夢をここからもう一度始めたい』って言ってたかな」
以来、彼女は精力的に働いたようだ。雑用も積極的にこなし、街頭での集客にも力を発揮した。次第に彼女は固定客を着実に獲得して、瞬く間に店の上位クラスにまで上り詰めた。
彼女の躍進の裏には、持ち前の明るい性格もさることながら、並々ならぬ努力があったという。
「彼女ね、休みの日は外出しないことのほうが多いんです。技術を磨くために引きこもるんだそうですよ。部屋を見たら分かるでしょう?」
薄井は稲村志穂の部屋に技術書や練習用ウィッグがあったことを思い出した。
「彼女、国際大会で優勝することを本気で考えてました。そのほうが、自分の店を持つのに有利だって」
「そんな彼女を、店のみんなで応援してました。だから誰かに恨まれるなんて、とんでもないことです」
八代はそう言って締めくくった。
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