■琴子の秘密
薄井は川上から車の鍵を借り、琴子をおぶって管理室から出た。背中ごしに彼女の体温を感じる。全身が
マンションの外に出て、都道三一七号線沿いに駐車してある捜査用車両の中へ琴子を運び込んだ。セダンの後部座席なので、ゆったり座ることはできないが、ひとまず安静にさせることが重要だ。
琴子を助手席側に座らせ、薄井は運転席側へ回る。彼女は高熱にうなされているように、浅い呼吸を繰り返している。薄井は介抱が必要だと判断した。
琴子が被っている帽子を取ると、艶やかな黒髪がこぼれ落ちるようにして広がった。髪に染み込んだ香料が薄井の鼻腔をくすぐる。
顔色が余計に赤く見えるのは、彼女が色白だからだろう。自然と琴子の唇に目が行く。厚すぎず、薄すぎず、果物のように瑞々しい。職業柄、派手な化粧は避けてあるが、それでも女性らしく口紅を塗っている。透明感のあるパールピンク、可愛いらしい彼女にぴったりの色だ。
「……って、なに見てんだ」
薄井は琴子の唇を意識している自分に気付き、頭を横に振った。
煩悩退散! と自分にいい聞かせ、次に琴子が着ている作業服のジッパーを指でつまんだ。
「……失礼します」
何故か一言、断りを入れてしまうのだった。ジッパーをゆっくり下ろしていくと、琴子が下に着ている黒のTシャツが見えた。白でなくてよかった、と変に安心してしまう。白いTシャツだと、下着が透けて見えてしまうのだ。
だが、ほっと一息ついたのも束の間。ジッパーを下げ終わると、華奢な体型の割に豊かなバストが目に入った。途端に自分の中の『男』である部分が刺激され、脳内に緊急警報が鳴り響く。
これは危険だ。吹き飛びそうな理性を何とか捕まえ、薄井は次の手立てを考えた。
急病人の介抱の方法として、一番基本的なのは『着衣を緩める』だ。既に上着は前を開いた。となると次は――
「下、か」
薄井は琴子のベルトを見た。ウエストが細いので、余りの部分がやけに長い。着衣を緩めるには、これを外さなければならないのだが――
「……ん」
琴子が身じろぎした。
「す、すみません!」
薄井は弾かれたように彼女から離れる。車のドアが背中にぶつかった。
「……んん」
琴子は上体を起こし、ゆっくりと周りを見た。まだ頭がぼんやりしているらしい。
「ああ……薄井さん」
寝ぼけまなこの彼女が近付いてくる。薄井はこれ以上、後ろに下がれない。琴子の顔が目の前にある。柔らかそうな唇が、くっつきそうな距離に。
と。
「……へっ、あっ? え?」
琴子が、ばちっと両目を見開いた。
「あれ、私……?」
彼女が目を伏せた。記憶をたどっているらしい。すると急に、琴子は両手で自分の鼻と口を覆った。瞬時に薄井から離れ、目に涙を浮かべながら聞いてくる。
「ごっ、ごめんなさい……。嫌じゃなかったですか?」
そんなことありません、と返答しそうになったが踏みとどまった。その言い方では変な意味になってしまう。
「本当にごめんなさい……私、時々『あんな風』になっちゃうんです」
琴子は身繕いすると、座席に座り直した。咳払いを一回。気持ちを切り替える為にそうしたのだろうが、耳はまだ赤いままだ。
しばしの間。
「……この際ですからお話ししますけど……私、実は密室が大好きでして」
それは今までの言動から分かっていることだ。
「いつも密室のことばかり考えて過ごしてるんです。どうやれば密室ができるのか、逆にどうすれば密室の謎が解けるのか……とか」
彼女にとって密室は、ライフワークの一部ということらしい。なるほど〈特別室〉の室長に抜擢されるわけだ。
「おおよそ『密室もの』と呼ばれるミステリ作品は目を通しました。古くはシャーロック・ホームズの〈まだらの紐事件〉、ジョン・ディクスン・カーの〈三つの棺〉、ガストン・ルルーの〈黄色い部屋の秘密〉。比較的最近では〈斜め屋敷の犯罪〉、〈十角館の殺人〉、〈46番目の密室〉、〈時の結ぶ密室〉……多分、発刊されたものは網羅してると思います」
琴子が挙げた作品のうち幾つかは、薄井もタイトルだけなら知っている。警察小説が好きでよく読むが、時々ジャンルを越えてミステリ作品に手を出すこともあるのだ。
「ミステリオタク、と思われても仕方ないです。でも私、それだけじゃないんです」
そこで少し、彼女が迷いを見せた。
見ると、再び琴子の顔が赤くなっている。心底恥ずかしいことをカミングアウトするか否か、決めあぐねているらしい。
しかし彼女は決断したようだ。
「私、極上の密室に出会うと……その……『乱れて』しまうんです」
「……はい?」
思わず聞き返してしまった。
「あ、いや……何というか……気持ちが、
薄井が聞き返したのを、彼女は詳細な説明を求められたものと解釈したらしい。目を潤ませながら、しどろもどろになって、なおも彼女は語るのだった。
「さ、さっきも……聞いた途端に、何かが込み上げてきて……そしたら急に『果てて』しまいまして……!」
恥ずかしさ故に遠回しな言い方を選んでいるところが、余計に羞恥心を掻き立てる。聞いている方が耐えきれなくなってきた。これではまるで、琴子の性癖を聞き出しているようなものだ。
「私がこうなった原因は、小学四年生の頃に兄の」
「はいはいはいはいはい、そこまで!」
強制終了。
彼女は俯いて、それきり何も言わなくなった。眼鏡のレンズが少し曇っている。きっと頭から湯気が出ているに違いない。
……さて、どうしたものか。
薄井は考えた末に尋ねた。
「どうしてあんなこと話したんですか?」
普通なら誰にも話したくないことのはずだ。まして琴子は若い女性である。部下の前で醜態を晒してしまったことへの弁明と考えても、やり過ぎのような気がした。
「……私、薄井さんのこと色々知ってるんです」
どきりとした。
「埼玉出身、実家ではお母様が一人暮らし。お父様を早くに亡くされ、母の手一つで育てられた。五つ歳上のお兄様は結婚して海外に在住。趣味は読書と水泳、高校生の頃には自由型で県大会五位入賞。警察に検挙された経歴はないけれど、オートバイでのスピード違反で切符を切られたことがある。現在、独身。友人は多いが、特定の交際相手はいない」
琴子が、すらすらと薄井の身上記録を話してみせた。彼女がここまで知っているのは、何も奇妙なことではない。警察組織においては、部下の身上把握が重要とされている。これは度重なる不祥事に歯止めをかけるべく、組織全体で取り組んでいる方策の一つだ。上司が部下のことをよく知っていれば、危険の兆候が早い段階で見つかり、不祥事を未然防止できるという趣旨なのだろう。
「私、薄井さんのプライバシーをこれだけ知ってるのに、私のことは何も薄井さんに伝えられてません。こんなの不公平じゃないですか」
一理ある。上司は部下をよく知っているが、部下は上司をよく知らない。これでは信頼関係を築くのは難しい。
「だから、私にとって一番恥ずかしいことを話しました。これでおあいこですね」
と言って、はにかんだ笑顔を見せた。
……この人は。
考え方が普通の人とは違うようだが、これが彼女なりの誠意なのだろう。上司であることにあぐらをかかず、対等で在ろうとする考え方には好感が持てた。
「……わかりました。今のは守秘義務の範囲に入れときます」
薄井は軽く冗談を言って微笑んだ。
「そういえば――ぅわあ!?」
話題を変えようとしたところで、薄井は驚かされた。
車の窓に、鷹野が顔をくっ付けていたのである。
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