■事案の認知

 最悪だ。

 薄井は思った。

 挨拶のタイミングを逃し、更には上司にタメ口をきいてしまった。体育会系気質の警察で、これは物凄くまずい。

 そう思ったから、自己紹介の後でさんざん謝り倒した。

「大丈夫です。よくあることですから、気にしないで下さい」

 そう言って天使の笑みを浮かべる彼女だった。

「じゃ、あとはこいつを頼む。悪い奴じゃないから、色々勉強させてやってくれ」

 そう言って鷹野が二人から離れた。自分の仕事に戻るのだろう。

 二人して鷹野に礼を言い、続いて薄井は衝立の向こうに通された。

 衝立の向こう側が〈特別室〉の執務室という扱いらしい。そこには書類棚や電気ポット、小型冷蔵庫などが置かれ、小規模な捜査本部を彷彿させる。窓際の棚に置かれた鉢植えの花が、女性警察官ならではの華やかさを演出していた。

 しかし薄井が最も気になったのは、事務机の数だった。

 たった二つ。奥の方が室長席だとして、手前は室員用だろうか。それにしても少な過ぎる。もしかして「あなたの席はありません」とかいう遠回しな嫌がらせだったりして。そんなことを考えてしまう。

「室長、私の席はどちらに?」

「どうぞどうぞ。そこの席を使っちゃって下さい」

 そこの席、というと一つしかない。これで嫌がらせの可能性は無くなったが、新たな疑問が湧いてきた。

「室長、他の方はどちらへ?」

 日頃から部屋を空けることが多いそうだから、他の室員は現場に出ているのかもしれない。

「いえ、いませんよ。私たち二人だけなんです」

 二人だけ!?

 心拍数が再び上昇した。しかし鷹野の忠告を思い出し、平静を保とうとする薄井だった。

 たった二人の係と聞いて思い出すのは、刑事ドラマの〈相棒〉だ。少し変わり者だが極めて優秀な上司と、個性的な部下の二人が数々の難事件を解決していくこの作品は、シリーズ化されて久しいが未だ根強い人気を誇っている。薄井もこの作品が好きで、よく観ていた。

 だから二人だけの係というものに多少の憧れはあったのだが、『相棒』がうら若き乙女(しかも自分の好きなタイプ!)とあっては捜査どころではなくなってしまう。二人きりで張り込みをした日には、理性を保てるか非常に危ういところだ。

「ところで薄井さん」

「はっ、はい」

 変な妄想をしていたのがバレたかと思った。

「『室長』って呼び方、やめにしませんか?」

「あっ、すみません」

 薄井が恐縮すると、彼女は眉を八の字にして申し訳なさそうに言うのだった。

「確かに役職は室長なんですけど……そう呼ばれるの、苦手なんです」

「そうなんですか?」

「それに私、『室長』って柄じゃないですし、年だって薄井さんより二つ下なんですよ?」

 ということは、いま二五歳か。見た目より若く見えるのは童顔のせいだろう。

「階級も一つ上なだけですし、実務経験なんか薄井さんの足元にも及びません」

 階級が一つ上とのことだから、彼女は警部補なのだろう。この若さで警部補なら、ノンキャリアはあり得ない。国家公務員総合職、警察庁採用の『キャリア組』というやつだ。ゆくゆくは警察組織で重要な役割を担うようになるのだろう。

「では、何とお呼びしましょうか?」

「下の名前で構いません」

「いや、それはちょっと……」

 上司を下の名前で呼ぶ部下など聞いたことがない。周りから馴れ馴れしいと思われやしないだろうか。

 かといって、「室生さん」だと彼女の父親と同じになってしまう。警察組織のトップを「さん」付けで呼んでいるような気がして、抵抗がある。

「『係長』では駄目ですか?」

 本来、本部系列では、係長といった呼び方は警部に対して使われる。しかし所轄なら、警部補が係長という役職になるので別に変ではない。

「駄目です。堅苦しい呼び方は全部禁止です」

 だが彼女は両手の人差し指でバツを作るのだった。意外に頑固なのかもしれない。

「大丈夫ですよ。皆さん、もう慣れてますから。中には私を『ちゃん』付けで呼ぶ方もいらっしゃいますよ」

 ……この人は、いよいよ自分を殺しにかかってるな。下の名前で呼んだら、また変な感情が芽生えてしまうじゃないか。

 薄井は悩んだ末に、

「とりあえず保留にさせて下さい……」

と、結論を先伸ばしにすることを選んだのだった。

「それよりも、そろそろ仕事の内容を……」

「あっ、そうでした」

 かなり遠回りしてしまったが、今日から任される仕事について知っておきたい。どうやら事件担当ではないようなので、今までとは勝手が違うはずだ。一日も早く仕事を覚えなければ、上司への負担が増えてしまう。

「では――」

 と、そのときだった。衝立の向こうで警電が鳴った。

 待機室に居た捜査員が、ワンコールで受話器を取る。

「はい、一課待機室」

 待機室に電話があったということは、事件の知らせかもしれない。薄井は衝立の向こうに意識を集中させた。

「はい、はい……『殺し』の可能性。場所は?」

 捜査員が聞いた内容を復唱し、更に先を促す。

「目黒区の……ああ、中目黒駅の近くですね。で、現場の状況は? え、完全施錠!?」

 琴子(内心ではそう呼ぶことにした)がピクリと反応した。彼女も聞き耳を立てている。

「完全施錠なら、自殺じゃないんですか? え、検視官が『一課を呼べ』って言ってる?」

 待機室の更に向こう、通路から足音が聞こえてきた。駆け足なので急いでいるのがわかる。

「――川上、召集かけろ! 順番が回ってきたぞ!!」

 待機室に駆け込んできたのは鷹野だった。

「……ああ、すまん。で、殺しで間違いないんだろうな。あ? その可能性が高い? 根拠は? ……ふん、ふん……つーか、今から現場行くわ。そっちで説明してくれ」

 鷹野は電話で誰かと話しているようだ。他の捜査員も外出中の班員に電話を架けていたり、部屋の外へ出ていったりして慌ただしい。

 衝立をノックする音。鷹野が携帯電話を片手に顔を出した。

「聞いてたか、今の?」

「はい」

 薄井は間髪入れずに返事した。琴子も真剣な顔で頷く。

「まだ確定じゃないが、殺しかもしれん。しかも部屋は完全施錠だ」

 完全施錠、それはつまり――『密室』ということだ。

「というわけで、殺人犯捜査七係の係長として正式に応援要請する。〈特別室〉から人員を派遣願いたい」

「了解しました。臨場します」

 凜とした声で琴子が答える。

「じゃ、車はうちで手配する。五分後に地下駐車場集合な」

 それだけ言うと、鷹野は待機室から飛び出していった。

「今のは何ですか……って、わぁ!?」

 振り向くと、琴子が薄井の真後ろにいた。彼女は体を震わせているが、怖がっているのとは違う。頬を紅潮させ、鼻息は荒く、口が笑みの形になっている。まるで欲しかった玩具を与えられた子供のような顔をしていた。

「薄井さん、『密室』ですよ! ここは我々〈特別室〉の出番です!!」

 星の煌めく瞳で、琴子がそう言った。

 薄井はまだ事情が飲み込めない。すると彼女は、両手を腰に当てて仁王立ちするのだった。

「我々〈特別室〉は、密室の解明を目的に作られた係なんですっ!」

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