■赴任初日3
待機室は簡素な部屋だった。十六畳ほどの広さで、中央に事務机が並べて置いてある。
机の上には警電(警察専用回線電話)が二つ置いてあるだけで、他には何もない。待機室というだけあって、日常的に使われている部屋ではなく、担当している事件のない係が当面の間、事案待機する為の部屋らしい。鷹野の係が今はこの部屋を使っているそうだから、今は次なる事件の『順番待ち』をしているところなのだろう。
部屋には四人ばかりの捜査員が詰めている。他の班員は代休を消化しているか、別の係が主導でやっている事件の支援に行っているようだ。待機中といっても、班員全員が一つの部屋に収まることはないらしい。
その狭くはない部屋の一角に、衝立で仕切られたスペースがある。広さにして六畳間ほどか。衝立にはやけに可愛らしいフォントで〈特別室〉と印字された紙が貼ってある。
「お疲れ様です」
鷹野に気付いたのだろう、捜査員の一人が挨拶する。他の者も同様だ。
薄井は会釈で返すものの、衝立の向こうが気になって仕方ない。衝立の向かって左側が〈特別室〉の入口になっているようだが、そろそろ覚悟を決めなくてはならない。相手がどんな上司であれ、四ヶ月経てば鷹野の係に引き上げて貰えるはず。それまでの辛抱だ。
と、そのとき。
衝立の陰から誰か出てきた。待機室に人が入ってきたのを察したのだろう。
新しい上司だと直感し、薄井は『気を付け』の姿勢を取る。そしてそのまま固まった。
姿を現した女性は若く、二十代前半に見える。上下ともに黒のスーツを着ており、就職活動中の女子大生のようだ。顔に浮かんだ朗らかな笑みからは、一片の邪気も感じられない。
何より圧倒されたのは、その雰囲気だ。白いワンピースを着て麦わら帽子を被り、サンドイッチの入ったバスケットを両手に持って、長い黒髪を風にたなびかせながら微笑む少女――そんなイメージがぴったりだった。
「え……あ……っと」
言葉にならない。胸が高鳴る。頭が混乱してしまった。
この子は誰なんだ? 庶務の職員だろうか? どうしてこんな子が一課に? それにしても、可愛い……。
「おい、ちょっと来い」
鷹野の声で現実に引き戻された。
薄井は待機室の外に連れ出される。後ろ向きに退出させられる間際、例の女性が笑顔のまま小首を傾げているのが見えた。そんな仕草ですら可愛らしい。
待機室の外で、薄井を前に鷹野が大きな溜息をついた。
「お前、まさか惚れたんじゃねぇだろうな?」
「う……」
図星だった。正直あのタイプは、自分の好みを直撃している。
鷹野は再び溜息をつくと、眉間にしわを寄せた。
「悪いこと言わねぇから、やめとけ。あれを、ただの『頭にタンポポ生えたねーちゃん』だと思ってたら痛い目見るぞ」
「ど、どういう意味ですか……?」
「あいつ……いや、あの子に手ぇ出したら、とんでもないところに飛ばされるかもしれん」
「飛ばされるって……もしかして偉い方のお嬢さんですか?」
鷹野が頷く。
「誰の娘さんなんですか。もしかして鷹野係長?」
「んなわけあるか。もっと上の人だよ」
「管理官?」
鷹野は首を横に振り、人差し指を上に向けた。もっと上だと言いたいらしい。
「理事官ですか?」
鷹野が人差し指を立てたまま、何度も突き上げる。
「一課長……じゃなくて、参事官。え、まだ上ですか!?」
薄井は考えた。参事官より上というと、あとは刑事部長、副総監……まさか。
「警視総監です……か?」
警視総監といえば、警視庁のトップだ。薄井や鷹野のようなノンキャリアが、どう頑張っても絶対にたどり着ける領域ではない。まさに雲の上の人だ。
だが、鷹野は尚も首を横に振る。そして答えを口にした。
「警察庁長官どのだ」
薄井は絶句した。警視総監が東京都を管轄する警視庁のトップであるのに対し、警察庁長官はあらゆる都道府県警察のトップである。薄井にしてみれば、天上人も同然だ。
「そういうわけだから、妙な気を起こすんじゃねぇぞ。わかったな」
「は、はい……」
そう返事するのがやっとだった。
「あのぅ……」
鈴の鳴るような声。薄井が振り向くと、さっきの女性が立っていた。薄井よりも背が低いので、彼女を見下ろす形になってしまう。楕円形の縁なしレンズの眼鏡を掛け、レンズの向こうには大きな瞳。目を合わせた途端、胸を射抜かれてしまいそうな魅力に溢れていた。
「薄井顕さんですね、お待ちしていました」
「え? ああ、はい」
結局、この子は何の為に一課にいるのだろう。見たところ年下のようだが。
「あの、〈特別室〉の係長に挨拶を……」
「あっ、はい」
と言って彼女は両手を前で組み、ぺこりとお辞儀した。
「申し遅れました。私、捜査第一課〈特別室〉の室長で、
一瞬、思考が停止した。
「え、じゃあ君が……!?」
「はい、今日から薄井さんの上司です。よろしくお願いしますね!」
彼女は満面の笑みを浮かべたのだった。
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