■赴任初日1

「巡査部長、薄井顕うすいあきら。捜査第一課特別室勤務を命ずる!」

 捜査第一課長室に管理官の声が響く。異動初日に行われる辞令交付の場面だ。新たに赴任した者は、所属長から特定の係で勤務する事を命じられる。この時から正式に異動先の勤務員となり、新所属での仕事が本格的に始まる。

 薄井は一課長から辞令書を受け取り、機敏な動作で敬礼した。伝統に従えば、この後は一課長からの激励となっている。

「薄井君、内勤で本部に来るのは初めてだね。緊張しているかな?」

 穏やかな声で一課長が言う。いかにも叩き上げといった強面からは、想像もつかないほどの優しさを感じる。直立不動でいる薄井を気付かってくれたのだろう。

「はい」

 返事は短く、しかし明確に。

「君も実感しているだろうが、近年、都民が我々警察組織を見る目は特に厳しくなっている。にも関わらず、未だ現職警察官の不祥事は後を絶たない」

 最近のニュースを踏まえての言葉だろう。他府県警察ではあるが、現職警察官が不倫相手を殺害したとして逮捕され、先日その公判で有罪判決が出たばかりだ。

「このような状況下にあって、我々を非難し、あるいは協力を拒む人々は少なくない。しかし、だ」

 一課長の眼光が鋭くなる。強い意志の現れだ。

「我々、特に刑事部の捜査員は被害者の無念を晴らす為に存在している。そのことを肝に命じ、日々の職務に邁進まいしんしてくれ。以上だ」

 自然と背筋が伸びた。薄井は奮い立つ思いを抱いて敬礼。回れ右すると、そのまま退室したのだった。



 晴れて念願の捜査第一課勤務。この『会社』(警察官は警察組織を何故かそう呼ぶ)に採用されてから長年夢見てきた職場だ。

 薄井は決然とした眼差しで前を向き、本庁舎の廊下を歩く。向かうは自分の勤務場所となる部屋だ。一週間前の内示から今日までの間、前任の所属では多忙を極めていたので、部屋に入るのは初めてである。

 気がかりなのは、新しい上司への挨拶を済ませていないことだった。上下関係の厳しい警察組織において、これは御法度といえる。無論、薄井とて何ら手を講じていなかったわけではなく、事件捜査に追われる中で挨拶の電話を入れていたのだった。

 しかし、結局は新しい上司に繋がらず今日に至る。捜査第一課に勤務する知人を通じて事情を尋ねたところ、新しい上司は日頃から外出することが多く、部屋にいることは滅多にないという。これを知って落胆している薄井に、事情を教えてくれた知人は、自分から伝言しておくと申し出てくれた。それに甘えることにしたのだが、やはり自ら挨拶できなかったという事実は残る。新しい上司が気を悪くしていなければいいのだが……。

 と、そこへ。向かい側から見覚えのある姿が近づいてきた。

 沈みかけていた気持ちが跳ね上がり、懐かしさと嬉しさが込み上げてきた。

「鷹野係長!」

 薄井は思わず駆け寄っていた。

「おぅ、待ってたぞ」

 鷹野はニヤリと笑みを浮かべる。顔立ちによっては嫌らしく見える笑みだが、彼は彫りが深く整った顔立ちで、すらりとした長身も相まって様になっている。短く刈った髪を整髪料で後方に流し、ワイルドな魅力を醸し出していた。細身のスーツを着こなし、洒落っ気もある。ドラマで刑事を演じている俳優だと紹介されたら、誰もが信じるような風貌だった。かたや中肉中背、短髪に塩顔といった、どこにでもいるような見た目の薄井とは大違いである。

「お久しぶりです。先日はどうもありがとうございました」

 礼は、新しい上司への取り次ぎをしてくれたことに対してのものだ。これを聞いて鷹野は「いいってことよ」と芝居がかった台詞を返す。顔にはかつての教え子を歓迎する師匠のような笑みが浮かんでいた。

「思ったより早かったな。あれから何年だ?」

「九年です」

 薄井は鷹野と初めて会った時のことを思い出した。正確に言えば、当時は二人とも同じ警察署に勤務しており、顔を合わせることも少なくなかった。だから、互いに強烈な印象が残った最初の出来事というのが正しい。

 薄井が警察学校を卒業し、地域課の交番勤務を始めて間もない頃の話だ。夜勤明けの勤務交代間際、駅前交番の勤務員だった薄井は、駅員と乗客のトラブルが発生したとの一報を受けた。

 通勤時間帯にはこうした事案が多く、仲裁を幾度となく経験してきたので、薄井は一人で現場に向かったのだった。交代間際ということもあり、相勤者を気遣っての単独行動だったが、後にこれが裏目に出てしまう。

 というのは、薄井が現場に到着した瞬間、トラブルが傷害事件に発展したのだ。止めに入ろうとした時にはもう遅かった。薄井の面前で駅員が乗客に顔面を殴打され、プラットホームに叩き付けられたのだ。

 薄井は即座に乗客の男を現行犯逮捕し、警察署まで連行したのだが……当直勤務の交代間際だった刑事たちから口々に怒鳴られたのだった。

 現場到着がもっと早ければ未然に防げたのに、防いでたら事件処理する必要もなかったのに、お前現逮の手続き知ってんのか早くしろ、状況説明もできないのか……等々。

 そんな中、当時強行犯係の係長をしていた鷹野が助け船を出してくれたのだった。

 ――いいじゃねぇか、こいつは悪い奴を捕まえてきたんだから。しかも自分の判断でだ。犯罪を目の当たりにして現逮できねぇ小心者より、よっぽどいい――

 九年経った今でも、この時の台詞は一言一句覚えている。薄井にとってあの時の鷹野は、救世主も同然だった。

 以来、鷹野は薄井をいたく気に入ったらしい。刑事課の飲み会に呼ばれたこともあるし、応援という形で重要事件の捜査に参加させて貰ったこともある。こうして可愛がられるうちに、いつしか薄井は、鷹野と共に働くことを目標とするようになっていた。

 高卒で警察官に採用され、赴任当時は一八歳だった薄井が、わずか三年後に刑事任用されたのは異例中の異例だった。鷹野は否定するが、この人の力添えがなければそれも不可能だったに違いない。

 惜しむらくは、薄井が刑事になったのとすれ違う形で、鷹野が捜査第一課に異動してしまったことだ。

 鷹野が新所属に向けて送り出される日、薄井は涙を流しながらも一つの約束を交わした。それは、何年先になろうとも同じ職場で再会すること。それが今日、ようやく叶ったのだ。

「ってことは、いま二七歳か。きっちり階級も一つ上げやがって。えらく優秀じゃねぇか」

 手離しで褒められ、薄井は〈ストロベリーナイト〉の姫川玲子ほどじゃないですけどね、と密かに思う。

 以前に読んだこの警察小説では、主人公の姫川玲子が大卒のノンキャリアでありながら、二七歳で警部補になっていた。しかも作中の役職は捜査第一課殺人犯捜査十係の主任。係長に次いで重要なポストである。フィクションとはいえ、彼女のほうが薄井の何十倍も優秀なのだ。

 ちなみに鷹野は現在、捜査第一課殺人犯捜査七係の係長で階級は警部。多くの捜査員たちを従え、現場で捜査の指揮を行う権限がある。刑事ドラマの殺人事件現場でよく見る『警部』がこの立場だ。彼が大卒のノンキャリアで四二歳ということを考えれば、現実世界ではかなり優秀な部類である。

「そんなことないですよ。鷹野係長に比べたらまだまだです」

 鷹野が吹き出した。

「お前、言うようになったなぁ」

 バンバンと背中を叩いてくる 。九年前は二の句も次げなかった薄井の変化が面白かったのだろう。

 薄井もこうした形で成長の片鱗を伝えられ、嬉しく思った。

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