「『碧落』」
海の渇き
――ふと我に返り、呼吸の仕方を忘れている自分がいる。言葉を忘れている自分がいる。その瞬間の私は、この手が、この感情が、誰のものか、知らない。
今度こそ、この瞳に、あなたの海は映るだろうか。
もうすぐ朝になる。そのことに、今気づく。墨を流したように真っ黒だった世界が、青く染まっている。それも、台風の前の。木々が緩慢な動きで枝葉を揺らしている。
デスクの上には、本がうず高く積まれており、プリントが散らばっている。ノートパソコンが音をたてている。疲れている、とは思わなかった。
風呂に入りたいが、それすら億劫に感じる。のろのろと椅子から腰を上げ、ケトルのスイッチを押す。なんだか頭がいたい。
窓を開けると、雨が降り込んだ。風が頬を殴る。
今、海は何色なのだろう。
見にいけばいい。今度こそ、自分の瞳に、あなたの海は映るだろうか。そこでまた気づく。私は海に行こうとしている。先ほどまで風呂に入ることすら億劫だったというのに。傘をもたずにふらふらと部屋を出て行く。
電気がついたままの部屋で、風の音が鳴る。開けられたページに雨が降り注いでいる。
私があなたの本と出会ったのは、高校三年の冬だった。そのころ、私は碌に受験勉強もせずに、自分の主張したいことばかりを連ねた小説を書いていた。画面を前にキーボードをたたくのは、ピアノを弾くことに似ていた。
一度女友達に見せたきり、誰かに自分の小説を見せたことはなかった。女友達は、やたらと前髪が長いうえにやたらと口が悪く、しかしそのことを自慢に思っているふうだった。
「あんたの小説、つまんないうえに、自己欺瞞で満ちてる。あんたみたいよね」
小説読んだくらいで、分かったように言うなんて気色悪いやつ。程度が低すぎて、反吐が出るよ。心底、気味が悪いと思った。誰にも読まれない紙の束が積まれていった。
自分の世界観が侵食されるのを恐れて、図書館の本は一冊も読まなかった。
私があなたの本と出会ったのは、高校三年生の冬だった。ただ強制的に受けさせられた模試で、突然その美しさに襲われたのだった。
脅かされるようだった。
あなたは海を描いた。大嵐の中で波打つ世界と、そこで生きる人々を描いていた。一〇〇年も前に生まれた言葉が、今生きる者の世界をこれほど美しく照らすのかと驚いた。たった一八年間の命が、思想が、すでに死んだ者によって打ち砕かれていっていることに、鋭い快感を覚えた。私は小説を書くことを辞めた。
言葉を殺された。そう思った。
私の言葉はあの時に息を止めたのだ。
他人に伝えたいことなど何もなかった。伝えられるようなことなど一つも見当たらなかった。言葉が一つ一つ、順に死んでいった。
かわりに、私の体には、青色の言葉が満ちていった。あなたの本は、一つ一つの事象に命を宿した。私の世界には、波打ち際の調べが鳴り続けている。ずっと、心を奪われたまま。
ときどき思う。あの日あなたの本に出会わなければ、もっと私は幸せに生きていけただろう。私の世界はもっと褪せて見えただろう。光の薄い分、影の濃さにも気づかず幸せに生きていけただろう。
大学に入った私は、他のすべてを忘れたように、あなたの本を読み漁った。私は友情も恋も知らなかった。周りの人々が何に苦しみ、何に喜んでいるのか何一つ分からなかった。
「何がそんなに必死にさせるのか」
まるで、機械みたいだな。
憐れみや嘲笑に似た声色を聞いた。それらのすべてが、うるさく飛び交う蠅の羽音に聞こえる。放っておいてくれないか。私には、あなたの本があるから、それで幸せなのだ。あなたの本だけが、私を裏切らないでいてくれる。私の孤独は色を濃くしていった。
恋をしてしまった。
「その本、そんなにおもしろいの」
そんなことを言うのは彼だけだった。瞳の優しい人だった。その温度は、日なたの縁側や、猫のふかふかした腹のような。誰からも避けられ、見下されていた私に話しかけてくれたのは、彼だけだった。彼の放つ言葉は、救いの音をしていた。光の届かない深海に、そっとさしのべられた手のように。
「きみは、きみのやりたいことをやりたいように」
彼といると、世界が色を変えて映る。すべての事柄が意味を変えて、それでいてこれまでを踏まえて目の前に現れる。膨らみきった蕾が次々とひらきはじめるように、私の世界はめまぐるしく変わっていく。
そして、あなたの本を読まなくなったことに気づいた。本の言葉よりも、彼の言葉が、命を宿して私に届く。私は愕然とし、急いで本を漁り始める。青い表紙が、日に当たっている。以前は劣化を防ぐためにカバーをかけていたというのに。ページをめくる。しかし、どれもが変化を失った死者のたわごとに映る。
失望した。
私は、なんと浅はかなのだろう。自分の生涯のうち、ただ一人自分だけは許さないだろうと確信した。
一か月も経たないうちに、彼の嫌なところばかりが目につきはじめた。彼が変わったわけではない。変わったのは、変わり続けているのは私だ。不思議なことに、彼の言葉よりも、あなたの本の言葉のほうが何倍も美しいように思える。けれど、その言葉すらも褪せて見えるのだった。
なんとなしに、自分が汚らわしい生き物に見えてきたのはそのころからだった。私以外のものが消毒された清潔なものに見えた。手をよく洗うようになった。本に触れる前には、石鹸で何度も手を洗わずにはいられなくなった。手が荒れた。彼とは、お互い触れることもせず別れた。
以前の美しかったものを見るために、あなたの本を読みふけった。
もはや、読めば読むほどあなたから遠ざかるのは明白だった。言葉は無限の意味をもった。読むごとに意味を変えて私の前に立ちはだかるなら、一冊の本さえ実像にはならなかった。
そのうち、私は思いいたる。何も、以前の世界が正しいとは限らない。では、今自分が読んでいるものとは何だ。目にしているものとは何だ。
疑いは疑いを生んでいく。
何度も海岸を歩いた。何度も望んだ。今度こそ、私の目には、美しい海が広がっているはずだ。気づけば、雨風に濡れて、岩肌に触れている。
なぜだ?
波打ち際の輝きも、波の砕け散る様子も、この目に映るすべてのものが信頼できない。
本当に見えているのか、映しているのか。無条件にすべてを信じられていた日々がまぶしい。
ふと我に返り、呼吸の仕方を忘れている自分がいる。言葉を忘れている自分がいる。その瞬間の私は、この手が、この感情が、誰のものか、知らない。私には、あなたの本がある。あなたがいる。しかし、そのあなたは本物のあなたなのか? わからない、わからない。ああ、本当にどうしようもなく、お前は、
お前は、ひとりだ。
他者が自分の一部になったとして、それは自分のなかでの幻想の他者にすぎない。自分の目を通す限り主観に彩られて、それは決して本物にならない。
私はそこではたと気づく。初めから完成している美しいものに、なぜ、私の色彩を通す必要があるのだろう。
ああ、そうか。
邪魔なのは、自分だ。
天啓だった。
私はただ、あの本の寄生虫だった。本当の意味では、初めから、自分はあなたと関連すらもっていなかった。私は、あの本と一寸の関係もない。ああ、そうだった。
なぜ、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。
あの本に、私は必要なかった。
ああひとりなのだ。せめて海へと飛び込もうとする、それすらも。もはや、止める者は誰一人としていなかった。体を満たしていたと思っていた言葉は、空っぽだった。
しかし、それなら、私とは? 私の生とは? 雨が頭を打つ。波が体をさらう。肌に服が吸いつく。こぽこぽと、水の揺らぐ音がする。
私とはいったいなんだ?
迫りくる闇に、深く、沈む。
(了)
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