「みずうみの呪い」
みずうみの呪い
一年前、恋人が逃げた。私の中には、春を誘う水のように、あふれてくる感情がある。
ドアを開けると、やっぱり青竹くんはノートを開いていた。やわらかな午後の日ざしに染められて、彼は顔を上げる。
「ああ、茜ちゃん」
田舎のちいさな病院には、老人以外ほとんど人がいない様子だった。緑が影を落とす白いカーテンが、ふわりと揺れている。窓際からは、小川のしずかな音がかすかに聞こえる。はらはらと、桜の花びらが舞い落ちて来る。目の前の青年は、背筋ののびた姿勢とはうらはらに、年老いた諦念の感情を顔に浮かべていた。私は、ベッドの傍の座椅子にこしかけた。差し入れのコーヒーをまるいテーブルに置く。
「また、作ってたんですか? 短歌」
「ああ、まあ」
彼はうっすらと笑いながら、ノートをぱたりと閉じた。「この通りだから、それしかすることがない」と言って、ふとんをめくった。ぱ、と包帯の清潔な白が目に入って来た。私は思わず目をそらした。
彼が交通事故に遭ったのは、一週間前だ。それも、追いかける私から逃げていて、車が近づいていることに気づかなかったというのが原因だった。幸いにも大事には至らず、今日からは面会もできるようになった。謝るなら今だ、と思った。けれど、私は一体何をどう謝ればいいのだろう。しずかに、しずかに私と彼の間を風がとおりぬけていった。
「あの時は、本当にごめん」
口を先に開いたのは、青竹くんだった。私が顔をあげると、彼は枕に手をおいてへらへらと笑っていた。
「まさか、こんなことになるとは思わなかった。本当だよ、信じてください」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分が謝ろうと思っていたことを、全部置き去りにして、立ち上がっていた。がたん、と椅子が一拍おくれて倒れた。遠くのほうでかすかにカラスが鳴いている。
「青竹くん」
ばかげている。健やかなすべすべとしたひたいを、ぱちんとひっぱたいた。
「湖は、とても不思議なんです。何かを落とせばゆらぐし、見つめると、いろんなものが見える」
県外のとある歌会で初めて出会った日。今から三年――彼は二十二、私はまだ二十一になったばかりの娘だった。出会う前から彼の噂は聞いていて、限られてはいたけれど、熱狂的な支持者もいるようだった。私のほうはと言えば、他人の評価以前に、自分自身が納得のいく歌を作り出すこともままならない。そして、そんな自分に嫌悪感を抱いていた。それだけに、自分と正反対に見える彼のことを、なんとなく苦々しく思っていた。
それなのにどうしてだろう。それなのに、今は。目の前で、青竹くんがひたいをさすりながら笑っている。
「相変わらず、茜ちゃんは気が強いなあ。まあ、そういうところ好きだけど」
「それは、恋愛感情的にですか?」
挑むように言うと、青竹くんはぱちくりとまばたきをした。
「急にどうしたの?」
どうしたの、と言われてしまうと困る。直球でしか勝負できない私は、思わぬ返しに黙ってしまった。青竹くんはおかしそうに笑っている。
「茜ちゃん、髪伸びたね」
「そりゃそうでしょう、一年も待たされては」
そう言いながら、私は別のことを考えていた。ふつふつと心に沸き上がってくる感情。空が、どろどろに溶けた黄身みたいな色をしている。私は返事をせずに、身を乗り出した。
「青竹くん。また、死ぬつもりですか」
彼はコーヒーをふきだした。そして、とてもとてもやさしい目で私を見つめて、大丈夫だよ、と言った。
「だってほら、今回だって失敗してるし」
「……青竹くん」
私は、彼の手をとって、首を振った。
一年前、付き合い出してから一か月も経たない頃、この人は「死にたい」と言い出した。お互いのことを理解し合えるわけもない浅い日だった。私は、真っ黒な湖が大きく音を立てるのを思い浮かべる。ばしゃん。その現場に居合わせたわけでもないのに、その風景は鮮やかに私の瞳に残っている。
青竹文人には、熱狂的な支持者が数人いた。それは彼が大学生時代に親しくしていた後輩だったらしい。彼女は彼に熱烈な恋をしていた。別に本気で死のうとしたわけではないんだと思う。桜の降る夜、彼女は振られた。大学のOB・OGの飲み会の帰り道だったという。酔っていたとか、仕事で精神的に不安定な時期だったとか、理由はいくらでもある。それでも、彼女は湖に身を投げて死のうとした。彼は目の前で、飛び散る透明な飛沫を見たのだという。深夜、電話先から彼が紡ぐ言葉は暗かった。私は、びしょびしょになって泣く、死ねなかった彼女の姿を想像した。藻屑がからまった濡れた髪の毛も、ぎらぎらした目も、なぜかひどく美しいんだろうと思う。彼女も彼の詠む世界に魅了されてしまった人。
「傷つけてしまった。不幸にしてしまった」
見舞いに行って、罵倒されて、謝って、謝られて、そうして私の元に帰って来た彼は、何日もぼんやりとしていた。そして、今度は青竹くんが呪いにかかってしまった。
「もう死んだ方がマシだ」と吐き捨てるように笑っていた。その足で青竹くんは、いなくなった。
私は、何日も何日も家で待った。真っ暗な部屋で、外を揺れる小さな光をぼうっと見つめていた。けれど、彼は帰って来なかった。だから私は、暇を見つけて湖をたどる旅に出ることにした。彼の詠んだ湖を一年間回り続けた。やっと見つけた彼は、木陰に揺れる湖をじっと見つめていた。あぶない、と思った。必死で駆けて行くと、驚いた彼は逃げ出して、それから後のことは今さら言うまでもない。
私は、私と青竹くんの間で繋がれた両手を見つめた。
「青竹くんの歌が、言葉が、好きなんです」
「……もう充分。もう、こんなことなら、やめようと思うんだ」
やんわりと、私の手をほどく。いつの間にか、部屋はうす青くなっていた。暮れの静けさと冷たさの中で、どくどくと、頭に血がのぼっていくのがわかった。
「短歌を、やめるんですか」
「……僕には歌う資格がありません」
「そんなの、逃げです。嫌いになりたくないから死のうとするなんて」
「……そんなこと言ったら、自殺志願者に怒られるよ」
「他の人のことじゃない、あなたのことを言っているんだっ」
私は、気づけば大きな声を出していた。私の中には、春を誘う水のように、あふれてくる感情がある。
「眼を見てください。私とあなたの話をしましょう。お願いです。人を傷つける覚悟ぐらい、もってください」
「茜ちゃん」
「笑わないで」
どうか、穏やかに笑わないでいてほしい。彼は、顔に笑みをはりつけたまま、動かなくなった。他の人の話なんてどうでもいい。誰がどうしようと勝手にすればいい。それでも、目の前のこの人だけは。
「どうして笑っているんですか。どうして諦めたみたいにへらへらしてるんですか。もっと本気になってくださいよ。もっと本当を見せてくださいよ」
「急に、どうしたの。……こわいよ、茜ちゃん」
「こわくない。誰もこわくないんです。大丈夫です」
私は首を振った。
「一度人を傷つけたくらい、なんですか。傷つけてしまったから、自分には幸せになる権利がないというのですか。あなたは言葉を放つなら、その言葉が時として人を傷つけていくことだって認めなければならない」
いちいち誰かの苦しみや悲しみに感化されていては、生きてはいけない。大切なものは、選び取っていかないと、生きてはいかれないのだ。
「……そんなことくらい、あなたは知っているはずです」
理想を押し付けてるのなんて、分かっている。そう思うことは、確かに傲慢であり、押しつけがましい事であり、とても身勝手なことであり、――それでも私は。それでも、青竹くんはまっとうすべきなのだ。魅了された側と魅了した側の熱量を。
「私はあなたの歌が好きなんです。あなたのことが、好きなんです」
「僕は、」
彼は顔を上げて口をつぐみ、そしてまた開いた。
「僕はあなたのことが、嫌いだ」
かすれた声で吐き出して、目を伏せた。ひきむすんだ唇が震えている。
「好きという言葉を武器にするなんて、ずるい。それは一番ずるいことです……」
「私は、卑怯ですか」
「卑怯です。どうしたって卑怯です」
どうして、まだ詠みたいと思うのだろうか、と彼は言った。人を不幸にしてもなお、どうして僕はノートを捨てられないのだろうか、と。月明かりの下で、涙の跡がきらきらと光った。
「そんなの、青竹くんが一番分かってるじゃないですか」
私は言った。そよそよと、風が吹いている。
はじめて出会った日。私がまだ彼に幼い敵意しかもちあわせていなかった日。私は彼に「とびきりの短歌を詠んでくれますか」と言った。青竹くんは、「僕、何かしましたか」と不思議そうに首を傾げた。
「なんだか、人を殺しそうな目をしてますけど」
ぎょっとして、大慌てで弁明する。表情に出ていたとは不覚だった。
「すみません。噂によく聞く青竹くんの歌を、見てみたくて」
「いいですよ。なんだか一生懸命な人だなあ」
とくすくす笑う。
「そういうの好きですよ。……僕たち、良い友だちになれるかもしれませんね」
深緑のノートを取り出した。そしてその次の瞬間には、彼からするりと表情が抜け落ちていた。私のことなんかさっさと忘れて、鋭い眼つきをしている。その時に私は思った。ああ、彼はきっと本当に短歌が好きなのだ。
そうして、春の魔法みたいに、その手から、うつくしい言葉が生まれてくるのだった。その時から、私は恋に落ちた。彼の詠む春の湖が、私を魅了したのだ。
白いカーテンの端がひらひらと暗がりの中を泳いでいる。白い布団に、両手をそっと置いた。私の中には、春を誘う水のように、あふれてくる感情がある。祈るように、願うように言った。
「私と同じ人間の身体をして、それなのにあなたの手から、たくさんの言葉が生まれていく。それが、私には信じられないんです。……ねえ、青竹くん。私たちは、まだ尊敬しあえる友ですか。私たちは、まだ愛しあえる恋人ですか」
「だから、そんなの……」
彼は言葉をゆっくり、丁寧に仕舞った。ずるい、とは言わなかった。
そうして、ふるえる指が、いま、やっと私の手にふれたのだった。
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