5.菊の姫君の屋敷
満月の上下に雲が流れている。
秋特有の寂寥が二人を包んでいる。姫君の屋敷は、蔦がそこらじゅうに這い、草木がのびのびと覆い繁っている。しかし、主を失ったその庭の生命力が、いっそう一族の没落を思わせた。
「しかし風平よ、本当に鬼が追いかけて来たらどうする気だ」
小さな声で問う。二人は、真黒に影を落とす木々の間に身を隠し、怨霊が現れるというその縁ばかりを見つめていた。柱の一部は朽ち果て、そこからアケビの蔓が伸びている。
「知れたこと、酒麻呂殿を贄にして逃げます」
「お前、またそういう……」
「酒麻呂殿」
風平が涼しい声で制する。どこから出してきたのか、筆と紙を持っていた。
「申し訳ないのだが、今良い詩が浮びそうなので静かにしていただけるか」
「……」
仕方なく、黙って屋敷を見張ることにする。
すすきがさやさやと揺れ、その葉が月光に染まってつややかさを増す。露がぽたりと落ちた。そこに、鈴を転がしたような声が聞こえる。
――来た。
風平も気づいたようである。二人は目を凝らす。
縁の奥、装飾のはげ落ちた屏風から姿を現わしたのは、黄に薄青を重ねた装束に身を包んだ女であった。しずしずと歩くごとに、濡れたように黒い髪がはらりと肩にかかる。
「蓼丸よ。久しいですね」
「お会いしとうございました」
向こう側には男が座していた。背すじはすらりと刀のように誠実さを語り、声は低く優しげで、思いの深さを浮ばせる。
さすがに夜のこととて、その見目はおぼろげであったが、しかしそれでも男女の佇まいは高貴な画を思わせた。
ぽつりぽつりと言葉を交わす。白い指さきが
「月がここへ落ちてきたようです」
「まあ。……されど、この月は本物ですか」
姫が戯れらしき口調で言う。蓼丸も笑う。
「もちろんです。わたくしの言葉を、信じてくださいますか」
「意地の悪い人ですね。わたしにとっては、どんなに名高いお方の言葉よりも、あなたの言葉がうれしい」
と言った。
「たとえ、同じ言葉であったとしても、あなたの遣う言葉が一番いとしい」
菊の姫君は、そっと何かを取り出した。ごわごわとした、汚いぼろきれのようであった。
「姫よ、それは」
「わたしは覚えています。手習いをしたことのないお前が、文をそっと渡してくれたこと。そのすみに、優しげな薄紫色の野菊が添えられていたこと。あなたの言葉が、わたしに幸せを与えてくれたこと。あなたは、知っていましたか」
「――ええ」
存じ上げておりました。
男女は微笑み合っている。
「何が恐ろしいのです」
風平が小声で言った。これでは肝試しにならないと、そう言うのである。
「待て待て、目が合えば鬼になり追いかけてくると――」
と、男を指さそうとしたところ、手元が辷った。
ぱりん、
高い音が上がる。地で盃が散った。
「誰じゃ」
「そこにいるのは誰じゃ」
男がこちらを見た。「しまった、すまぬ」と身をかがめ、風平のほうを向く。しかし、そこには誰もいない。
「おい風平?」
返事はない。
とうの昔に逃げたようである。「奴め本当に見捨ておった!」、酒麻呂は思わず叫んだ。それなら致し方あるまいと意を決して前を見れば、男がまだこちらを見ている。いや、見ているだけではない、口をぱくぱくさせ――――
「酒麻呂殿?」
と、言った。
「……は?」と酒麻呂があっけにとられていると、何を思ったか男は一目散に逃げ出した。それだけではない。いつの間にか姫君も姿を消しているではないか。
「どういうことだ? おい、待たれよ!」
暗闇の中を駆ける。黒々とした木々の間を駆ける。
男の足は速かった。しかし、こちらの名前が知れているということは、一体どういうことか。酒麻呂にも、相手の素性を確かめねばならぬ理由ができてしまった。
「ええい許せ!」
酒麻呂は、大きな木の板を拾い上げ、その背に投げつけた。板は右肩にあたり、男は態勢を崩す。そのまま蔓に足をとられたと見えて、叢に倒れ込んだ。男はうめき声をあげている。
「……おぬし、何者じゃ」
酒麻呂は肩で息をしながら、その背中に問いかける。間近で見ればなんのことはない、寂びた身なりである。男は観念したのであろう、背を向けたまま膝についた草をはたき、すっくと立ちあがる。そして、静かにこちらを向いた。
「……おぬしは!」
澄んだ瞳。きりりと結んだ唇。その端整な顔で酒麻呂を見据えるのは、
「――良知にございます」
雑用係、良知その人であった。「一体どういうことだ」、酒麻呂は茫然として呟いた。さやさやとすすきの揺れる音がする。
「おぬし、ここの鬼に追いかけられたのではなかったのか」
怯え泣き叫び、逃げ帰ったと聞いた。であれば、こんなところでこんな風に出会うはずがない。
「ぬしは、何がしたいのだ」
「……」
「ぬしは、此度の件とどういう関係にあるのだ」
「蓼丸は、わたくしの祖父の兄にあたる者です」
「なんと。……しかし、なぜ」
なぜこのようなことをする必要がある。酒麻呂には分からなかった。
「それを説明するためには、五十年前の蓼丸の話からはじめなければなりません」
そう言い、いったん口を閉じた。
そよそよと風が吹いている。その透き通る瞳が、酒麻呂をとらえた。
「聞いてくださりますか」
一瞬、自分を置き去りにした憎たらしい男のことが浮かぶ。何が「飲み明かしましょう」だ。酒麻呂はやれやれとため息をつき、瓶子を取り出す。今は、丑の刻を過ぎた頃であろうか。
「聞こう」
叢の上にどっかりと座った。
菊の姫君との仲を引き裂かれた後、蓼丸の一族は右京の東で寂れた暮らしをしはじめた。そしてその矢先、飢饉が人々を襲う。
幸いにも、蓼丸は生きながらえることができた。しかし、風の噂で姫の一族が没落したことを耳にする。そんなはずはない。気づけばその足はふらふらと屋敷に向いていた。唖然とした。人気が全くない。ぼうぼうと生えた草を踏み、真っすぐに姫の部屋へと向かった。床に柱が倒れていた。かつて彼は、そこで姫を抱いた。そこを、一匹の
蓼丸は一日のほとんどの時間を、ぼんやりと虚空を見つめ過ごすようになった。食べ物が喉を通らない日が続き、体調を崩しがちになった。視力が衰えた。自身の死について度々口にするようになった。これ以上この命を長らえても意味がない。ならば、せめて思い出の地でその命を終わらせたい。蓼丸は短刀を携え、再び屋敷を訪れた。
しかし、いざ草をかき分け屋敷の中に入ろうとすると、縁のほうに、人影が見えた。泣いているのか、肩が細かに震えている。黒髪が艶やかに流れた。
「ああ」
蓼丸は思わず声を洩らした。
私はその姿を知っている。
想いが止めどなく溢れる。心が締めつけられる。切ない。苦しい。いてもたってもいられなかった。
「もし、あなたさまは菊の姫君にございまするか」
女はゆっくりと蓼丸のほうを向いた。「あなたは蓼丸ですか」。それで、二人は、虫の食う縁に座り、ぽつりぽつりと身の上を話した。姫は、一族が没落するという寸前に、遠方の殿方に引き取られたのだという。しかし、今宵はひどく物憂い気持ちになって、そうっと抜け出して来たのだと言った。
「もう帰らなければ。夜が明けてしまいます。……次の満月の夜も会えますか」
蓼丸は、牛車が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。一月後が待ち遠しくてならなかった。しかし、半月が過ぎる頃、蓼丸はもう歩くこともままならなかった。そこで、事情を知る弟を代わりに屋敷へ行かせることにした。「蓼丸めは露となり消えゆく身であるが、どうか姫は幸せに暮らしてほしい」と伝える手はずであった。
「ああ、蓼丸、待っておりましたよ」
しかし、姫は弟のことを蓼丸と呼ぶではないか。そして、不思議なことにいつまでも気づくそぶりがない。弟は、姫の幸せそうな顔を見て真実を伝えることができず、とうとう兄を演じ切ってしまったというのである。
「あれはもしや、怨念が残っただけの、死した後の霊か何かかもしれぬぞ――」
話し終えた弟がふとそのようなことを漏らした。蓼丸は床に臥したまま考えた。なるほど、姫は幽霊かもしれぬし、鬼や妖かもしれぬ。それでも、それでも……。
「弟よ」
蓼丸は、涙を流しながら言うた。
「どうか、満月の夜だけ、俺の代わりに俺として生きてはくれまいか」
その思いは、弟とて同じであった。あの美しいお方を傷つけるくらいなら、悲しませるくらいならば。自分は兄として生きたい。既にその心は奪われた後だった。弟が心の内と決意を伝えると、蓼丸は安心しきった顔で眠ったという。
兄から弟へと受け継がれた恋心は、やがて父から子へ。
父から子へと受け継がれた恋心は、やがてまたその兄から弟へ。
十年が過ぎた。二十年が過ぎた。気がつけば、五十年経っていた。蓼丸が老いることを知らぬように、姫君もまた老いることを知らなかった。いつまでも、いつまでも、美しい姿のままであった。
「では、鬼が追いかけて来たという話は嘘であったと」
「はい。屋敷を打ち壊すという話を伺い、いてもたってもいられず。鬼が出たという嘘を流したのは、このわたくしめでございます」
「一族のためにやっているのか」
「まさか。ただ、わたくしどもは惹かれあっているだけです」
「相手方の本当の身分は。昼の生活は」
「知りませぬな」
はっきりと言った。酒麻呂には理解ができない。
「……ぬしは、それでいいのか。相手方は、それでいいのか」
「ええ」
「馬鹿な。不毛だ」
酒麻呂は思わず吐き捨てた。
「それでは、そこには、誰もいないのと同じではないか。ぬしが、ぬしらのやっていることは、化かし合いではないのか。互いに大嘘を演じているだけではないのか」
「そうでしょうか。わたくしにとっては、それが真実だ」
きらりとその目が光る。そして静かに言った。
「酒麻呂殿。逆に訊いてもよろしいか」
「なんだ」
「あなたはなぜ酒麻呂殿なのです」
風が吹く。草木が揺れる。
「なぜご自分をご自分だと思われる。なぜそう言い切ることができる」
「……何が言いたい」
「あれが怨霊である、鬼であると、目に見えたものに意味を与えたのは人々ではありませぬか。そこにただ在るだけのものに、各々が各々の真実を作り、それを信じたのではありませぬか」
「……」
「酒麻呂殿。不毛だと言えばそれは不毛になります。ですが、私が信ずればそれが本物になるのです」
この目に起こったことが真実だと思う限り、それは私の真実となりましょう。姫君が信ずれば、それが姫君の真実となりましょう。語る声は、しんしんと降る雪のように冷たく、打った鉄のように熱い。
「――わたくしは、永久になりたい。二人でともに、永久の真実になりたいのです」
男が顔を上げた。その双眸は、冴え冴えと澄みきっている。
「姫君が望む限り、この命は何度でも蘇りましょう」
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