3.おそろしげなる話

 事の始まりは五十年以上前に遡る。洛外にある小さな屋敷の話である。庭は手入れが行き届いており、いつも四季の花々が奥ゆかしく揺れ、小池が澄み渡っていた。通る者が、ほうとため息をつかずにはいられないような屋敷であった。

 そこに住まう一番上の姫は、菊が咲く頃に生まれたことから、菊の姫君と呼ばれ親しまれていた。見目麗しく、いつも柔和な笑みを浮かべているが、どこか芯のとおった話し方をする。琴を弾いても歌を詠んでも、人の心を震わせるものがあった。父母はもちろん、家の使用人からまでが、たいそう姫君を愛でたそうな。

 そして、いつしかその評判は、あるやんごとなき身分の殿方の耳に入り、すぐに姫君をもらいうけようという話になった。高貴なお方の妻となることは、一族の繁栄を意味する。家の者たちはたいそう喜んだ。

 しかし、父母が知らぬ間に、すでに姫は身ごもっておった。

 すぐに、蓼丸たでまるという一人の男の名が挙がった。意志の強そうな目をした美しい男である。蓼丸は、幼き頃から姫の使用人であった。であれば、もちろん先の殿方の文を取り次いだのものこの男である。事もあろうか、殿方の書き損じた紙を使って、文のやり取りの真似事をしていたらしく――そのことを知った殿方は怒り狂い、交流の一切を絶ってしまったという。もちろん、姫君と蓼丸の恋路、腹の子の末路など言うまでもなかろう。

 やがて、姫の一族は先の飢饉に襲われ、没落の一途を辿ることになる。一族の者はさぞ無念であったろうな。姫があの殿と結ばれておれば、もしかしたら――。不幸をそのまま残したかのようながらんどうの屋敷には、誰にも寄り付かなくなった。むき出しの柱が骸のようであった。

 しかし、その誰もいなくなった寂びれた屋敷から、時おり人の声がするという。それも、たいていが満月の夜であった。はじめ、通りがかる者は、何かのっぴきならぬ事情のある貴族とどこぞの姫君が密会をしているのであろうと思っていた。実際、覗き込んだ者は、男女が座して見つめ合っているところを見たという。

 しかし、どうもおかしい。というのも、五十年以上経つにも関わらず、その男女は全く老いることがないのだという。そもそも、妖が出てもおかしうないいわくつきの屋敷ぞ。さびさびと風の通る、雨露さえしのげぬ屋敷ぞ。崩れ落ちた木片に虫すら寄り付かぬようなところじゃて、ただの人がいるようには思えぬ。「あれは、あれは菊姫と蓼丸の怨霊ではないか」と囁かれるようになった。

 しかし、それを聞きつけたのが件の殿方の孫であった。この男、家では大口をたたく癖に、臆病に輪をかけた臆病者であった。「孫である私が祟られるかもしれぬ」、「陰陽師はどこじゃ」、「いやいっそ取り壊しに行くべきか」と怯えた。しかし、まず事実を確かめなければならない。家の使用人の一人に、様子を見てくるよう命じたのであった。

 ぼうっとした満月の夜である。

 使用人は、覆い繁る草木に身を隠し、その時を待った。

 しばらくすると、なるほど現れたのは噂通りの若い男女である。遠目からでも分かる美しい佇まい。今は亡き、姫君であろう――。思わずほうと息をつき、身を乗り出すと、「そこにいるのは誰じゃ」、と男の顔がこちらへ向いた。

「おのれ。見よったな――」

 おどろおどろしい声が響いたかと思うと、男の顔がぶくぶくと膨らむではないか。頭の皮がずるりとはげ落ちる。赤黒い顔から、どろどろとした血がしたたり落ちる。ぼとり。片目がこぼれおちる。手足の爪が長くなる。

 ――鬼だ、鬼である。

 使用人は悲鳴を上げて逃げ出した。鬼は、かちかちと歯をならしながら追いかけて来る。腐臭が鼻をかすめ、もはやこれまでかと思ったとき、

「――もうよいわ」

 鬼が、ざんばらの髪を振り乱しこちらを見ているという。使用人は、泣き叫び、逃げ惑ううちに、いつの間にか屋敷の外まで来ていたのである。そのまま一目散にその場を去った。後ろからは、こんな声が聞こえてきたという。

 ――二度と来るでない。さもなくば、千代先まで呪ってやろうぞ。

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