第9話

 シャワーを浴び終え、きちんと元の服(彼が四苦八苦しながらシャワーを浴びている間に乾燥機で乾かしたものを私が脱衣所に投げ込んでおいた)を着込んで出て来たとき、彼は力尽きていた。ほとんど這うようにしてバスルームから出てくるなり、カーペットの上にべしゃりと倒れ込んだ。

「ほら、これ麦茶。飲んで」

 倒れ伏した彼の隣に座り、コップを差し出すと彼は「いいー」と眠たげな声で断った。

そんな彼のまだ濡れた髪をむんずと掴んで顔をあげると、彼は「いただきます」と大人しく起き上がった。

とはいえ、彼の手は物をつかむのに最高に適していない。コップを落として割られたあげく、カーペットの上にぶちまけられるなんて、もしそんなことをされようものなら外に彼を蹴り出すのも辞さないくらい、嫌だったので、私は彼の口元にコップを持って行って飲ませてやった。

飲んでいる間、コップのふち越しに見上げてきたので、なぁにと目で問うと、彼はまた目を伏せた。てっきりにっこりと笑うかと思ったのに。それが少々意外だった。

 コップの中身がきれいになくなると、彼はとろんとした目でベッドにもたれかかった。私は彼の横顔を見てひとつ息を吐き出して、コップを流しで洗ったあと、改めて彼の隣に座り込んだ。

「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」

 なんでもどうぞ、と半ば眠りに沈みかけた彼が答えた。そんな彼の頬をぺちぺちと叩きながら、私は尋ねた。

「なんでさ、あんたはろくでもない女とばかり付き合うわけ?」

 彼はうっすらと目を開けて、「みんないい子たちだよ……」と言った。なんとも彼らしい言い草に、私は鼻を鳴らした。

「ホテルに置き去りにする女や、同情して慰めてあげたのにフるような女が?」

 彼は少し怪訝そうに私を見上げ、「ああ」とつぶやいた。

「あの子、そういや君と同じ語学のクラスだっけ……」

 名前も言っていないのにすぐにわかったことに、少し驚いた。覚えているの、と訊けば、覚えているよ、と当然のことのように彼は言う。それから、じゃあさ、とあくびをしながら今度は私に問うた。

「彼女は悪い人かな。君は仲良くしているみたいだけど」

 私は少し間を置いてから、「いい子だよ」と小さく答えた。うん、と彼は微笑む、そうでしょう、と。

「馬鹿じゃないの」

 考えもなしに、そんなことを言っていた。どういう意味かな、という目で見上げる彼に、私はよくわからないままに言った。

「相手がろくでなしでなかったとしてもね、なんであんたはもっと自分を大事にしないの」

 言ってから私は、思いがけずとても正しく思っていることを言い表せたと、ちいさな驚きめいた気持ちとともに少し嬉しくなった。

彼は思ってもみなかったことを言われて、瞬いた。彼のそんな表情を引きだしたことがまた少し、私を喜ばせる。彼は目を伏せて考えて込んでから、「うん、そうだね」とつぶやき、考えていたんだ、と彼は言った。

「骨が抜かれた朝から、というか、バイト先まで君にわざわざ行ってもらって、自分の問題と言われたときから、ずっと考えていたんだ。骨を抜かれたことについて。本当ならこんなこと起こらないはずなのに。どうしてかなってことと、あと、笑っちゃうくらい潔癖症な子のこととかね」

 その潔癖症な子が低い声で「外に蹴り出されたい?」と言うと、彼は勘弁して、と苦笑いした。そのあとで真顔になって、「でも、君は自分を普通と思っているけど、たぶんそうじゃないよ。少なくともいまの時代は」と言った。私はそっぽを向く。それを見て彼は小さく笑った。

「まあ、言われた通り、結局は僕が馬鹿だったということなんだろうけどね」

 本当に馬鹿だね、と言葉に出さずつぶやいた。

 ほんのいっとき、彼のもとへやって来た女性たちはまたたくまに去って行った。そのことを彼はとっくに知っていた。それでも彼は、また一人去るのを見送るたびに、この出会いが最後とならなかったことに少し、傷付いた。そしてもう二度と恋人には戻らない女に、そのときになって骨を抜かれてきたのだ。彼はそういう、救いようのない愚かな男。

 彼は眠そうにまたあくびをした。

「骨じゃなくて、心であるべきだったんだよね、どうせ盗られるなら……」

 言ったきり目を閉じてしまった彼は、しばらく見守っていたけれど、起きる気配がなかった。寝入ってしまったのかと諦めて、私は彼の身体を横たえて、頭の下にクッションを敷いてあげた。それからクローゼットの奥にしまいこんであったタオルケットを取り出し、彼にかけてやった。女友達が泊まりに来たとき用の予備の敷布団もあるにはあるけど、カーペットの上だし男だし、これで我慢してもらおうかな、と思いながら彼の目がぱちりと開いたので、どきっとした。気付いたんだ、と彼は眠たい目で微笑む。

「自分にも相手にもその気がなくてもさ、心って奪われるんだよね」

「あんたが骨を抜かれたときだって、そうだったじゃない」

 そうなんだけど、と言ってから彼は首を横に振った。

「世間では、そういうの、恋に落ちるって呼ぶんだよ」

 あっそ、と私が素っ気なく返事すると、うん、と頷きながら彼は目を閉じた。今度こそ抗うことなく眠りに引き込まれていくように。

ただ、眠りの底に沈みきってしまう前に、本当にそういったのかあやしいほどささやかな声で、でもそれって君にも必要な経験だよね、と言った。寝言だ、と決めつけて、私は電気を消して自分もベッドにもぐりこんだ。

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