第8話

 その日の夜は、激しい雨だった。季節外れの嵐がきたようですらあった。風は激しく吹き付けて、窓の外の電線を大きく揺さぶり、それで低いうなり声をたてているのが部屋の中からでもよくわかる。学生の一人暮らしがようやくできる程度の安普請のアパートは、ちょっとした地震にでも襲われているみたいに部屋が小刻みに揺れ、玄関のドアの隙間からは外の暴風の切れ端が吹き込んでくる。

 ローテーブルに麦茶を入れたコップの隣に講義で課された読む気のしない本を伏せ、ベッドの足元に膝を曲げて座り込む私が風のうなりと叩きつける雨音を聞きながら、ぼんやりと部屋の黄ばんだ壁に視線をさ迷わせながらなにを考えていたのかといえば、彼のことばかり。

 指を押し当てた唇からは、ときおり自己嫌悪の短く苦い叫びが漏れた。もしかしてあのへらへらと腑抜けた(いま彼から抜けているのは骨だけど)笑みを浮かべる彼も、見せないだけで裏では傷ついていたのかも知れない、だなんて余計なことが心配になったせいだ。

そうすると、自分が彼に投げつけた、自業自得だのだいっきらいだのという言葉や、あてこすり、皮肉の数々が、ひどく心ないものに思えて、良心をきりきりと苛んだ。そうすると私は、うう、とか、死にたい、とか、ああもう馬鹿サイテーとか、頭を抱え膝に額を埋め、うなるはめになる。

 なんであいつは骨を抜かれたんだろう、とずっと頭のなかでまわっている疑問をまた胸の内でつぶやく。

優しかった、と元カノの彼女は言った。そうだろう。彼はいつだって「女の子」に優しい。それが私の目には、ものすごく浮ついて不誠実に見えたのだ。だって、明らかに普通のあるべき親切とは違った、特別な種類のものに見えたから。実際、彼は男友達にはさほど優しくはない。ぞんざいに扱うことだってあるし、けっこう適当なのだ。それがまあ、男性同士によくある同性の友人への態度だと言ってしまえばそれだけなのだけど。

 彼は了解しているものだと疑わなかった。自分が流行の恋愛曲のCDであることに。望まれれば望まれた回数だけ、貸し出し回数を重ねていくことに。取り巻きの女の子たちだって、彼はそういうものだと思っていただろう。双方には言うまでもない合意がとれていて、その上で遊んでいるのだと。ということは、期限が来れば必ず返却されることだって、彼らのなかでは当然のはずなのだ。……でも、そうではなかったとしたら? 少なくとも、彼にとっては。

 外でなにか、金属製みたいなものが固いものに当たる音が響いた。空き缶でも飛んだかな、と意識の片隅で考えて、それがひとつのイメージを結んだ。からん、と。血糊のついた白い骨が落ちる絵だ。それは、柳の枝のような女の手が、男の若い肉体を切り裂いて中から引きぬいたばかりの、骨だ。

 彼のことだから、ことごとく全員に優しかったのだろう。さぞや甘い恋歌を聴かせてやったに違いない。彼だって恋遊びの思い出をたっぷりと受け取っていただろう。

でも、もしかして少しは期待していたのかな、だなんて思う。このままずっと、ということがあるのかな、だなんて。でも、そうはならなかった。

それはたとえば、かつて友人であった彼女から涙が消えた頃の別れの言葉であったり、昨夜ふと誘ってきた年上の女性がそこにいるとばかり思って目を覚ました自分の傍らがもぬけの殻だった朝であったりしたのだ。

からん。

そのとき、そんな虚しい音を内に聴いていたのかもしれない。

 突然ベランダからした大きな音に驚いて、勢いよく膝がしらから顔をあげた。部屋から見える影では、どうやら物干しざおに布か何かがひっかかって激しく風にあおられているらしい。それにしてもずいぶんと大きい。隣か上の部屋から出し忘れのシーツでも飛んできたのかな? とベランダに出る。窓を開けた途端に吹き付けた強風と豪雨に一瞬を目をつむって恐る恐る再び目を開けると、そこにはもうこれ以上濡れることはできませんというくらい濡れそぼった骨抜き男がいた。

「……なにしているの、そんなところで」

 いまにも吹き飛ばされそうに身体をばたばたいわせる彼は、どうにか顔だけあげた。雨にうたれたその顔が、いっしゅん泣いているように見えたから驚いた。すぐにさっきまでなんやかんやと考えていたことのせいでそう見えただけで、実際は雨のしずくだと気付いたけれど。

「なんとか家まで帰りつこうと思ったんだ。こんな天気になるまえに」

 彼はうめいた。相当身体をあちこちに叩きつけられたらしい。声は弱々しかったし、腕にはあざらしいものも見えた。それで、と彼は駄目元とわかりきった目で私をうかがう。

「もしよければ、中にいれてくれると助かるな……。すごく」

 私は思わずうちの中を振り返った。幸い普段からそんなに散らかす性格ではないので、せいぜい流し台に夕飯の食器がそのまま残っているくらいで、他人に見られて困るものはない。その他人というものが、異性であったとしても。ただ、彼の頼み込んでいるのが取り巻きや他に彼に優しくしたがる女の子の一人ではなく、私というのが問題だった。

「……私、女の一人暮らしだっていうこと、知ってるよね?」

 うん、と力なく彼は頷いた。いつもの軽口めいた口調で懇願に取りかからないあたり、力尽きているのがよくわかる。

「私が特別そういうことが嫌いな性格ということも、知ってるよね?」

 うん、とまた彼は弱々しく頷く。がっかりした様子はなかった。どうせ駄目だと思って期待していなかったせいだろう。

 また、暴風が襲ってきた。あやまたず彼はまたひどい、糸のきれた凧くらいしか経験することがないような嵐の中の夜間飛行へと連れ戻されそうになる。すんでのところで、私は彼を捕まえた。彼は磁石が南を指すのでも見たかのような、心底驚いた顔をした。私はまだ迷っていたけれど、このままでは私もびしょ濡れになるのは免れないので、ため息をついてからとうとう言った。

「……いいよ。非常事態だし」


 彼を部屋に入れたところで、窓の傍から一歩も動くなと(自由に身動きが利かない身体とはいえ)厳命した。なにせ、彼ときたら濡れ鼠もいいところでそのまま中に入れようものなら部屋中水浸しにされそうだったから。

私はバスルームに走って行き、あるなかで一番大きなバスタオルを持ってくると彼をめちゃめちゃに包み込み、骨抜き男のバスタオル包み団子を床の上で押して脱衣所に運び込んだ。

「服だけ脱いでくれたら、乾燥機にかけてあげる。下着までの面倒はみないからね。いい? お湯は出るようにしておいたから、シャワー浴びて。タオルはそれ使ってね」

 私が言う間に、彼はもごもごとバスタオルから這いだした。そして骨のない手で不器用に、服を脱ごうと試みた。しかし、濡れて身体に張り付いた服は脱ぎにくいことこの上ない、まして彼の手とあっては。

見ていて少し気の毒になった私は気付いたら「大丈夫?」と声をかけていた。すると彼は手をとめて、なんとなく期待をこめた瞳でこちらを見上げ、「じゃあ、脱がせてくれる?」と微笑んだ。私はすかさず彼をバスルームに蹴り込んで扉をぴしゃりと閉める。「まだ服を脱いでないよー」と情けない声が向こうから聞こえてきた。

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