第7話

 学食の窓に面した脚の長い椅子を連ねたカウンター席に座り、一人で定食を黙々と食べていると、隣の席が引かれてカバンが置かれた。何気なくそちらを見ると、クラスメートの女子だった。

「ぼっち? さみしいのねー。ここ、いい?」

 独特の左右非対称の、左の唇の端だけ少しあげた笑みを浮かべて彼女は問うた。この笑みとさばさばした物言いのおかげで、彼女はずいぶん勝気でさっぱりとした性格に見える。

「お好きにどうぞ」

 私は言いながらすぐにお味噌汁を手に取ってすすった。こんなぞんざいな物言いと態度が通じるくらい、私たちは打ち解けた仲だった。彼女も遠慮なく私の隣に座ると、手に持っていた昼食を乗せたプレートをカウンターに置いた。

 それから互いに何も話さず、静かに食事に没頭していた。と思ったのは私だけで、どうやら彼女のほうは私に話しかけるタイミングをうかがっていたらしい。そしてそれはほどなく訪れた。

 私達の目の前の通りを、見るからに目立つ骨のないふにゃふにゃ男が、あっちへふらりこっちへひらりの様子でどうにか歩いている。その涙ぐましい努力による歩行も、一陣の風が吹き抜けたときにあっという間に台無しになった。彼はほとんど抵抗も出来ずに飛ばされて、また風量が足りないがために満足に浮き上がることもできず、そのまま滑稽な操り人形のようにちょっと宙に浮いた格好で、見えない糸に引き寄せられるように少し先の生協の看板に激突した。

 私達はそれを無言に目で追い、同年代の女性の多くのように意味も無くけらけら笑うことも中傷めいた軽口をたたくこともなく、口のなかに入れた食物をひたすら噛んでいた。彼女はそれを飲み下すと、視線は外に向けたままで口火を切った。

「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」

「私に答えられることならね」

 お茶をすすりながら言うと、彼女はかまわずに本題に入った。

「さっき吹き飛ばされていった、一反木綿みたいな男のことなんだけど」

 私はお茶を飲み込んで吐き出した吐息とともに、「一反木綿にしては厚みがあると思うけどね……」とつぶやいたが、彼女は取り合わなかった。

「あいつね、実を言うと元カレなの、私の」

「あっそう」

 特に感慨なく相づちをうった私に、彼女は振り向いた。

「驚かないんだ」

「そりゃあ、そういう人だと嫌と言うほど見てきましたから? 同じサークルだし」

 なるほど、と彼女は頬杖をついた。

「あいつ、相変わらずなんだ……」

 なんとなく物憂げに見える横顔を、茶碗を持ちながら横目で眺めた。

「相変わらずって、どういうこと?」

 尋ねると、「高校のとき、二年と三年で同じクラスだったの。最近は全然しゃべってないけどね」と答えが返ってきた。ふぅん、と私は頷いた。

「それで、元カレが今さらどうしたの? よその女に骨抜きにされたから嫉妬? 女ってやぁね」

 彼女は頬杖を外して「あんたも女でしょうが」とこちらを軽く睨んだが、どうやらこちらの口調にあわせたおふざけで本気ではないようだった。

「よその女に骨抜きにされたって、それ本当?」

「本当。バイト先の年上の女にお酒誘われて、終電なくなって、ホテル泊まってやることやって、それで起きたら彼女は消えてて、骨も消えてたってわけ」

 なにそれ、と彼女はこらえかねたように笑った。仮にも元カノがひどいもんだと、私はご飯を頬張った。

 彼女は笑いを押さえると長く息を吐き出し、「まあ、私も人のことは言えないけどね」とやっぱりいくぶん物憂くつぶやいた。私が視線を向けると、彼女は学食の安物プラスチックのグラスの縁を指でなぞり、「私とあいつが別れたのはね、私がそうしようって言ったからなの。ついでに言うと、付き合おうと言ったのも私ね。たぶん、三ヶ月ももたなかった」と言った。私は口の中のものを飲み込んだ。

「絵に描いたような、不誠実ね」

 遠慮なく言うと、彼女は言い訳をせず苦く微笑んだ。

「そのとき私、実はフラれたばかりだったの。初めての恋人に。それも初恋。我ながら幼くって、そりゃあもう夢中だった。だけど、あっさり浮気をされて、それではい、おしまい。今ならありがちって笑い飛ばして、軽い復讐の一つでもして終わりにしちゃうけど、当時の私としてはこの世の終わりって感じですごく傷ついた」

 彼女はグラスの縁をはじく。中に入った透明な水に波紋が生まれる。それが消えてすっかり鎮まる頃に、また彼女は口を開いた。

「仲のいい友達だったあいつがずいぶんと慰めてくれて。すごく優しかったの。それでぐらっときちゃってさ。でも、そういうのって長くは続かないのね。はっと目が覚めたの。あ、違うって。この状態は間違っているんだって。それをありのまま伝えたの。彼は、うん、って言ったきり。それで終わり」

 私は、すぐには何も言わなかった。彼女はグラスを手に取り、音をたてずに中の水を飲んだ。彼女はグラスを置いたときに、もしかしたら、と言った。

「あいつは、そのバイト先の女の人ひとりのせいじゃなくてさ、私みたいな女と付き合うたびに、一本ずつ骨を抜かれていったのかもね。人間の骨が何本あるかなんて知らないけど」

 それを聞いたとき、彼のCDのたとえ話を思い出した。

「あいつ、自分はだいたいの女の子にとって理想のカレシを当てはめるのにちょうどいい相手なんだって言ってた。だから、自分は流行の恋愛歌のCDみたいなもんなんだって」

 彼女は「上手い例え」と笑う。私は、わざと音をたてて茶碗をプレートに置いた。

「そういうのって、不誠実で嫌い」

 彼女は面白そうに私を見る。

「さっきから、不誠実不誠実ってよく言うけど、なにが不誠実なの?」

「なにがって、不誠実じゃない。互いにいいように利用して、適当な気持ちで恋愛ごっこしてセックスして、それで飽きたら別れる、なんて」

 彼女は私が言う間じっと見ていたけれど、言い終えないうちにもう可笑しいというふうに笑い始めた。睨みつけると、彼女は笑いを押さえながら、手をひらひらと振った。

「あんたって、ほかはともかく、この手の話になると以上に子供。眠っている間に運命の王子様が現れて、キスして目覚めさせてくれるとでも思っているみたい」

 誰がそんなこと、と声を荒げると、小さい子をあやす口調で「よしよし」と彼女はなだめた。

「誰だって、だいたいはそう。そりゃあ、将来を見据えていつまでも、なんて考えてはいなくても、それはまだ私達の年を考えればそうでしょう。だからって、都合よく相手を利用しようだとか、そんな打算で付き合ったり、利用価値がなくなったからって別れたりしてるわけじゃない、セフレじゃあるまいし。別れたカップルそれぞれに、いろんな理由があって別れてるの。それは誠実なときもあるし、不誠実なときもある。でもあんたってば、別れたら即不誠実、ってとらえ方してそう。どうせ遊びの恋なんでしょ、って」

 言い返せなかった。それというのも、彼女には経験があり、私にはそれがないからだった。私がなにをどう言い返そうと、自分から告白して彼を三か月足らずでフったことを、不誠実だとは言わせないのだろう。そういう強みがあった。だから私は、彼女になにも言い返せない。

「身分制度が撤廃されて、親同士が決めた許嫁が死語になって、自由恋愛がもてはやされるようになった今では、みんなそんなふうに失敗を繰り返して、最後になんとか自分を落ち着かせようとするわけ。こればっかりは、いつなにが最後かなんてわからないけどね」

 同い年の人間から、こんなふうに諭し顔になにかを言われるのは腹が立つ。「その年でなに、恋愛マスターぶってんのよ」と茶々を入れてから、少し彼のことを考えた。

「じゃあ、あいつもそうやって自分の恋を探してるって言いたいわけ。たまたまいつも失敗してしまうだけで」

 言ってからなにか違うな、と思った。私にまんまとドリンク代を払わしめた、あの女の声が浮かんでくる。「もともと私は彼の骨を抜く気なんてなかったし、彼は抜かれるような人間ではないはず」

 いや、と隣の彼女が言った。

「そこまで考えていないと思うよ、あいつは。そっちは軽いところがあるのは紛れもない事実だし、そこんところもうちょっとしっかりしたら、と私だって思うし」

 やっぱり、と思うと、私は急にばからしくなってきた。そもそもどうして私が、彼と寝たり付き合ったりした女たちとこんな話をしなければいけないんだ。理不尽すぎて涙がでてくる。

 むくれて頬杖をついた私を見て短く笑った彼女は、そのあとふと視線を宙にさまよわせた。窓の向こうにはもう骨を抜かれた男の姿はなかった。ひょろひょろ歩いて行ったのか、風に吹き飛ばされたのか。

「だけどやっぱり、傷つけたんだろうなぁ……」

 罪悪感あるの、と尋ねると、そりゃあ一応はね、と彼女は答えた。あほらし、と私は鼻を鳴らす。

「あいつもいいって言って付き合ってたんでしょ。そういう軽い男だって、さっき自分で言ったばっかりなんだから、あんたが今さら悩む必要なんてないじゃない」

 彼女は微笑んだ。わかってないな、とでも言いたげに。

「あいつが傷ついたなら私は傷つけたってことでしょ。それはなにも変わらないの」

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