第4話

 骨を取り戻そうと努める彼の姿は、傍から見ていてなかなか滑稽で、ゆえに哀れだった。

講義に出てもまずペンを握るのが至難の業であったし、端末でスクリーンの写真を撮ることもあの腕では不可能なのだ。彼の出る講義に私が居合わせると、絶えずなにかしらの取り落す音や、それを拾おうと苦労していると思しき音が響いていた。

それを聞くと、こちらがいたたまれない思いをするというのも、不思議な話だった。こちらは十分すぎるほど迷惑を被ったというのに。

 彼のことだから、そんなふうに骨を失くしてしまったことに対して同情を寄せて何くれとなく世話を焼きたがる女性はひきもきらないだろうと思っていたのだけれど、キャンパス内で見かける彼は、いつも一人だった。おぼつかない足取りでひょろひょろと歩き、風が吹けば飛ばされて近くの校舎の壁に激突するか、上空に舞い上がって姿が見えなくなった。

 いまもまたどこかへ吹っ飛んで行った彼を遠目に見てため息をついた。今度はどこまで飛ばされたんだか、と考えていると、それから数時間後、その日の講義を終えて帰ろうと駅に向かって銀杏並木を歩いているときに、ようやく青々と茂りはじめた枝の一本に、彼がそよいでいるのを見つけた。諦めきったような、ふてくされた顔をしていた。

足を止めて樹上を見上げると、骨のない足がたいそう複雑に枝に絡みついているのだ。いったんああなったものをほどくには、根気がいるだろう。むっつりとしたくなるのもわかる。

 目が合うと、彼はついと顔を背けた。子供っぽい仕草だった。そのまま通り過ぎることもできたのに、直前までそうするつもりでいたにも関わらず、声をかけてしまった。

「そこでなにしているの」

 上手いどころか、完全に皮肉としか聞こえない言葉が口をついて出た。当然彼は、そっぽを向いたまま「関係ない」と拗ねた声で応えた。

「今までずっと無視していたくせに」

 小学生のようなあてつけに、肩をすくめたくなった。そうしなかったのは、彼にそう言わせる私の行動自体が、幼かったかもしれないと思ったからだ。

「私がかまわなくても、親切にしてくれる人はたくさんいると思ったの」

「いないよ、そんなの」

「取り巻きは?」

「さあね」

 唇をとがらせた彼の横顔は寂しかった。もしかしたら、と思った。もしかしたら、彼を好きだった、あるいは好きな女の子たちの一人も、彼が誰かに骨を抜かれてこんな悲惨な状況に陥っているなんて夢にも思わず、だから彼がキャンパスでへにゃへにゃとさ迷っていたり、あちこちにやたらと吹き飛んでぶつかっていたりしても、それが彼だと気が付かないのかもしれない。まあ、これまでの彼を見るかぎり、それは正しい評価なのかもしれないけれど。

「とりあえず、降りてきたら」

「もういいよ。今日だけで三度目なんだ。しかもややこしい絡まり方をしているし」

「それじゃ、そのままずぅっとひっかかっているつもり?」

「別にいい」

「餓死するよ」

「別にいい」

「……死んだらふつう骨が残るけど、その状態で死んじゃったら何も残らないのかな?」

「試してみる?」

 やけっぱちに見返してきた彼に、笑う気も起らなかった。スーパーのお菓子売り場で蹲った子供を見下ろすのって、こんな気分なんだろう、たぶん。

「ほら、拗ねていないで降りてきなよ」

 拗ねていたのはどっちだよ、とぶつぶつ言ったのは、きちんと聞こえていた。私は、「いいから!」と大きな声を出す。すると、彼は嫌々自分の脚をほどきにかかった。しかし、なにせ指に骨が通っていないので時間がかかる。それでも、日に何度もひっかかったり、絡まったりしているだけあって、作業にはどこか慣れた様子がうかがえた。残った筋肉や筋の動きや硬さをうまく利用してほどいている。

 ようやく脚がほどけると、彼は慎重に幹にすがりながら降りてきた。骨がなくなって風に吹き飛ぶほど軽くなったとはいえ、重力に従って自然に落ちれば残った痛覚が悲鳴をあげるくらいの体重は、まだあるらしい。その様子を見守っていると、風が吹いた。途端にふわりと浮かび上がった彼を、既視感を覚えながら。掴んで引き止めた。

 てんで掴み応えのない腕で、風にあおられながら彼は私をじっと見つめて、それから、「君って恋心ないの?」と訊いてきた。

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