第5話

 なんとなく散歩(といっても彼の脚はほとんど使い物にならないので、私の鞄に腕を絡ませてヘリウム風船のように引かれてくっついてくるだけなのだけど)する雰囲気になって、私達は裏手のひたすら下りが続く、木に似せた無機物で段が設けられた土がむき出しで、右も左も木々に囲まれた、やたらと自然に満ちた階段をわけもなく下っていた。

「それであんたは、自分が骨を失くしたから、他人もなにか失くしていると思いたくなったわけ」

 だいぶ沈黙が続いてから蒸し返すと、彼は「意地悪な言い方だね」と言った。それから、たぶん僕って、と続ける。

「大学ではリア充がいい、みたいな風潮があるじゃない、そういうなかでだいたいの女の子が思い描く相手役として、相応しいというかぴったりというか、そんなところが僕にはあるんじゃないかな」

 だから? と先をうながすと、彼は自分でなにかを確認するように頷いてから、また続けた。

「だから、リア充に憧れている女の子たちにとって僕はちょうどよくて、君の言い方をすれば、とっかえひっかえする、っていうことをしているんだと思うよ。なんていうのかな、あれだよ。人気の恋愛曲が入ったCDを、ツタヤとかで借りるような、そういう感覚」

「つまり、あんたは大多数の女の子にとっての、CDだって言いたいわけね」

 大多数って言っても、まだそんなに貸し出し回数はないけどね、と彼は笑う。それじゃ何回くらいなの、と訊くと、んー、十回そこそこかな、と答えた。CDとしては少ないねと、CDとしては、を強調して言うと、彼はまた笑った。

「でね、なんとなく不思議に思ったんだ。君はなんでCDを借りに来ないのかな、って」

「決まってるでしょ。あんたみたいな軽薄な男はだいっきらいだからだよ」

 うん、と彼はさほどこたえた様子も見せずにうなずき、でもさ、と言った。

「君、誠実な人だってフったんでしょ」

 私は思わず、段の途中で立ち止まった。自然と彼も止まる。それまで風船のように後ろについてきた彼に振り向いた。

「それ、どこで聞いたの?」

「サークルの女子。名前は言えないよ。別に口止めされてないけど、プライバシーだから」

「噂になってるの?」

 心臓が嫌な早い鼓動の打ち方をする。けれど、彼は「いや」と否定した。

「君たち仲良かったのに、最近なんとなく疎遠だな、と思って。こういうのって微妙だけどね。それでなにか知ってそうな子に聞いたら教えてくれた。たぶん、知っててせいぜい君と彼の周辺くらいじゃない」

 少し、安心した。歩き出すと、彼は身を乗り出して後ろから覗き込むようにして尋ねた。

「彼、いい人だと思う。僕も仲いいし、一度サシ飲みしたことあるけど、たぶん初恋じゃないかな。少なくとも、僕とはかけはなれた人種だと思う。なのに、なんでフったの」

 それもかなり手ひどく、と小さく付け足した彼の声に、否が応でもそのときのことを思い出した。

冬のさなかの期末試験期間、最後の必修の試験を受け終わったとき、同じ学科の彼も同時に試験から解放されていた。あの独特の清々しさで、試験の問題についてあれこれ話しながら、駅の向こう側の学生街に行って、ラーメン屋に入った。二人でカウンターに並んで、ラーメンをすすった。そこまでは、普段通りだった。なんの話をしていたのか思い出せない。ただ、唐突ではなく、彼なりに出来うる限り精一杯の話の運びを掴んだ末に言い出したことだったのだと思う。私は激しく狼狽えた。結果、表面にその内心が表れるよりも早く、間髪入れずに「そんなのって信じられない」とこれ以上になく鮮やかに切り捨ててしまったのは、最悪だった。そっか、とだけその人は言って、たぶん持ち得る精神力のすべてを使っていつものように椀を空にした。そのときその場では、そのような余裕はてんでなかったけれど、あとから彼の心中を思いやる度に、穴があったら入りたい、我が身を粉々に引き裂いてほしい、死にたい、という、そんな気分になった。現にいま、そんな気分だ。

「別に、手ひどくフるつもりなんてなかった」

 吐き出した声は、弱々しかった。そう? とだけ、彼は言った。

 木々に囲まれた下り階段は途切れて、大学裏手の住宅街に出た。駅までの道わかる、と自分の方向感覚にいまひとつ自身の持てない私が尋ねると、左、と彼は答えてから、帰るの、と訊いた。他に何するのよ、と言おうとしたところで、彼は強く風に吸い寄せられた。私の手がTシャツの裾を掴んでいたのでそのまま空の彼方の遠い人になることはまぬがれたが、ほとんど泳ぐような真横の体制になって揺さぶられたので、あやうく私の手にTシャツだけを残して、上半身裸で飛んでいくところだった。彼の並々ならない努力でそうはならなかったものの、それでも風がやむまでのいっとき、彼の上半身がなんの覆いもなく白日の下にさらされることになり、多いとは言えないものの通行人たちの目を引いた。

 これはさすがに同情に値するな、と思いつつ、服を直す彼を眺めた。でも彼は、あまり気にしてはいないらしかった。男の人は水着になれば上半身は晒すものなので、これくらいでは見られて恥ずかしい裸のうちには入らないのだろうか。それでも、吹っ飛ばないとはいえ、風が吹くたびこれでは不便だと思ったらしく、おもむろに神経と筋肉の動きだけでべろん、と右腕を差し出してきた。

「ごめん、掴むのは手にしてくれる?」

「やだ。気持ち悪いもの」

 反射的に言ってしまってから後悔しても遅かった。彼は最初なにを言われたのかと驚いた顔をして、次にゆっくりと心の底から傷付いた人の表情を見せた。そして無言で、骨のない右腕をひっこめた。

「ごめん、違うの」

 慌てて謝ってもあとの祭りだ。いまの彼にとって、私の心ない言葉がどれほど痛かったか。いいよ、という彼の声は硬かった。それから、私の鞄に巻きつけていた左腕を外した。そのまま、すっと距離を置こうとした彼の服の裾を掴んで引き止める。

「気持ち悪いって、そういう意味じゃないの」

 彼はちっとも信用していない目で私を見る。

「じゃあ、どういう意味なわけ?」

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