第3話

 タリーズコーヒーを出ると、視界の端でなにかがはためいた。見れば、それは彼だった。斜めに空へ掛けられた電線の束の黄色い柱に、腕を巻きつけてこちらを見ている。その状態で安定するまで、ほうぼう吹き飛ばされて苦労しました、と語るかのように彼の髪や服装は乱れていた。

「あの女の人、ぜったいホテル代を折半する気はないと思う」

 近寄った私を見上げて、彼は力ない笑みを浮かべた。

「それはいいんだ。たいした金額じゃないし。重要なのは骨だよ、骨。ないとどんなに不便かこの一時間で骨身に染みた、って言いたくても言えない。なにせ骨がないから。それくらい大変だ」

 笑うのか笑わないのか定まらず、中途半端な顔になってしまった。気まずい沈黙がつかの間、私達を通り過ぎた。

「それで、彼女なんて言ってた? 返してくれるって?」

 ほとほと弱った様子の彼を一度じっくり見た。なんとなく、腹立たしかった。それは、数々の無神経な彼女の言葉や、絶えず顔に浮かんでいた化粧でうまく描いたような微笑への、あっさりと矛先を交わされて発することの叶わなかった怒りであったし、あっけらかんと昨日寝た、などと言ってしまう骨を抜かれた男が目の前にいるということへのやるせなさでもあり、同時に恋愛経験すらない身でありながら他人の色恋沙汰に巻き込まれてまんまと知らない女のドリンク代を払わされている自分への情けなさでもあった。

胸の内に、間違っても綺麗とは言えない感情が渦巻いているときに口を開くとろくがないことを、これまでの人生経験で学んでいた。こんな男であっても、考えなしに罵詈雑言を吐けば、あとで罪悪感に苛まれるのは目に見えているのだ。こんな難儀な性格の自分から黙り込んで、ほとんど睨むように彼の顔を見つめていると、どれだけ満ちようともいずれは引いてゆく潮のように、怒りは徐々におさまっていった。

 次に浮かんできたのは、あの子の問題、というあの女の声と、目の前の餌を待っているひもじい犬にも似た様子の彼に対する、本当だろうか、という思いだった。この期に及んでまだそんなことを考えている自分に、また少し腹がたった。

「あんたの問題なんだって」

 私がだしぬけに言ったことがうまくのみこめないというように、彼はまばたきをした。

「骨を返してもらうなんて言葉、聞いたことないでしょ。だから、骨がなくて困るなら、自分で立ち直るしかないだってさ」

 それから、と彼に口を挟む隙を与えず、言葉を継いだ。

「あの人、あんたが本気になるとは思わなかったし、本気になるような男のはずじゃないって、言ってた」

 なんだか最後にこれを伝えたときに、やりきれなさが臨界点を超えてしまったらしい。私は、まともに真っ直ぐ歩くことすらできない、ちょっとの風でもすぐ飛んで行ってしまうかわいそうな彼をその場において、ずんずんと歩き始めてしまった。

 彼は待ってと言わなかった。

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