第2話

 彼のバイト先の居酒屋の前で、どうして私がこんなこと、と思わずにはいられなかった。大学と私の家までの間にあって寄りやすいからという理由で立ち寄ってはみたものの、どう考えてもおかしい。踵を返そうとしたところで、勝手に私の鞄を掴んでここまで連れてきた彼は、「ここまで来て帰らないでよ」と慌てた。

「おかしいでしょ。なんで私が、あんたと寝た相手に直談判申し込まなきゃいけないのよ。他の元カノたちの誰かに頼めばいいじゃない。喜んで引き受けてくれるんじゃない」

「恥ずかしくて頼めないって。他の女の人に骨を抜かれました、助けて下さい、だなんて」

「だったら、自分で言いに行けばいいじゃない」

「それも無理。どうしたら、こんな情けない格好で昨日寝た相手に、抜いた骨を返して下さい、だなんて言えるんだよ」

「そんなの知らない」

 彼は言い返そうとしたところで、はっと何かに気付いた顔をした。なによ、と聞こうとしたところで、ちょうど吹いてきた風に合わせて彼は鞄から手を離して空高く舞い上がった。呆気にとられて高度を増してゆく彼を見送ったが、すぐにあとかたもなく見えなくなってしまった。訳が分からず顔を戻したところで、店に入ろうとしている若い女性と目が合った。そこですぐに目を逸らせばやりすごすこともできたのに、この人か、と見つめてしまったのが運の尽きだった。

「開店にはまだ時間がありますけど、なにか?」

 見ると確かに、半開きになった引き戸の内側に縄のれんが見える。

「あ、いや、お店に来たわけじゃないんです」

 怪訝そうな顔をした彼女に、私はしぶしぶ先ほど吹き飛んで行った友人の名前を出した。彼女はすぐにわかって、ああ、と頷いた。そうでなければならない。「誰ですかそれ?」だなんてつんと店に入られては困る。

「彼がどうかしました?」

 どうかしました、のかるい口調に少しかちんときた。昨夜の一から十までまったく軽率な行動を、どうかしない、と思えるあたり、反りがあわない人だなぁと感じる。

「いま彼は、少し困ったことになっているんです」

 私の声音に言外の責めを感じたのか、彼女はお店の扉を閉めた。

「私、シフトまでまだ時間があるんです。今日は早めに来てしまって。よければ立ち話もなんなので、近くでお茶でもどうですか?」

 そういうわけで、私と彼女は居酒屋からさほど離れていない場所にあるタリーズコーヒーに入った。我ながら奇妙なシチュエーションだと思いながらも、彼女を盗み見ると、かるく微笑まれた。

「私、ハニーミルクラテのトールサイズ」

「は?」

「席は取っておくね。よろしく~」

 ひらりと手を振って歩き出す彼女の足元では、フレアのスカートの裾がふわりと揺れる。目が合った時の微笑みも完璧だったな、と思いながら、私はカウンターに並ぶ。

しかも、その微笑みがつやつやと唇とも相まっていかにも罪のない柔らかな雰囲気の人。こういう女性の内面に、年下の学生と飲んでホテルに連れ込んで、そのまま置き去りにしていく女が隠れているのかと思うと、深いため息をつきたくなった。

「それで、大変ってどういうこと? もしかして今朝のことで困っていた?」

「もしかしなくても、困ると思いますけど」

 彼女には、トールサイズのハニーを、私はショートサイズの水出しアイスコーヒーを、互いに一口すすったところで、意外にも向こうから口火を切られた。

 思わず厳しい表情になった私を、彼女は巻かれた毛先を震わせながら小さく笑ってかわした。

「だって、起きないんだもの。私はその後すぐに予定があったから、もう待っていられなくて。今日会って謝ってちゃんと払おうと思っていたの」

 彼女の指は白く長く、グラスは指先だけでそっとつかむので、あぶなかっしいのに、不思議と安定したそのしぐさに、どこまでも私とは違う人だと思っていると、「そういえば、彼はいないの?」と尋ねた。私は意味も無くストローで氷をかき回して音をたてる。

「恥ずかしくて来られないそうです」

 小首をかしげた彼女に、とうとう告げた。

「彼、あなたに骨を抜かれてしまったみたいなんです」

 彼女は、ことん、と音をたててグラスを置いた。それからとても不思議そうに言った。

「あの子、私のことなんて全然好きじゃないと思っていたのに」

 考えるより先に、鋭く相手を睨みつけていた。

「そういう半端な気持ちでああいうことするの、どうかと思いますけど」

 彼女は意外そうに目を見張り、それから面白いものを見つけたとでも言いたげに微笑んだ。

「いまどき珍しいくらい純粋」

 一気に頭に血がのぼった私になど毛ほども気にせず、彼女は頬杖をついて見るともなしに近くの観賞植物の植木鉢あたりを見ながら、「わからないなぁ」とつぶやいた。

「あれくらいのことで熱をあげるような子じゃないはずなんだけど」

 あれくらいのことって。怒りが沸点に達しそうになったとき、彼女はくいと私のほうに目を戻した。

「ねえ、彼は本当に言っていたの? 私に骨を抜かれたって」

「あなたがさっさと逃げ出したホテルで目をさましたら、骨が抜けてふにゃふにゃになっていたらしいですからね」

 口調がとげとげしくなるのも構わず言ったが、彼女にはいっこうに効かないらしい。「そっかぁ」と納得いかない声を出して、私を見やった。

「それで、私にどうしてほしいの?」

「決まっているじゃないですか。すぐに彼に骨を返してやって下さい」

 すると、彼女はおかしそうに、それは無理、ところころ笑い声をたてた。すかさず文句を言おうとした私を制して、彼女は言った。

「じゃあ、あなたは、抜いた骨を返す、なんて言葉を聞いたことある?」

「ないですけど、それがいったいなんだっていうんですか」

 憮然と言い返した私に、いい? と彼女はまるで物わかりの悪い生徒にゆっくりと丁寧に説明してあげるような口調で言った。

「もともと私は彼の骨を抜く気なんてなかったし、彼は抜かれるような人間ではないはず。それに万が一私が抜いちゃったとしても、女からは抜いた骨は返せないし、そもそも取り戻すものでもないわけ。抜かれちゃったほうが自分で骨を入れるか、つまり立ち直るってことだけど、それかずうっとそのままでいるかしかないの。わかる?」

 言葉に詰まった私に、彼女は微笑した。

「つまり、どちらにせよこれはあの子の問題、ってこと」

 言い終えるなり彼女は細い手首に巻いた腕時計を見て、そろそろ時間だから、と立ち上がって、じゃあね、と手を振って行ってしまった。

 彼女から、トールのハニーミルクラテ代、460円をもらいそびれたことに気付いたのは、しばらくしてからだった。

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