【漫画】『四月は君の噓』を紹介。特徴的な表現方法が素晴らしい!
2019年3月5日
前回の『裏世界ピクニック』の記事にて、最後にチラッとタイトルを出しました『四月は君の噓』。せっかくなのでこちらも記事にすることにしました。
『四月は君の噓』は講談社『月刊少年マガジン』にて2011年から2015年まで連載していた漫画作品です。全11巻。
フジテレビ『ノイタミナ』枠にて2014年秋から2クールでアニメ放送され、アニメと原作漫画が同時期に完結しました。かくいう私も『四月は君の噓』はアニメが初見で、アニメ最終回と原作完結が同じタイミングだったのをいいことに、放送終了後に原作を読み始めたくちです。少ない巻数で完結している漫画作品は手を出しやすくていい!
あらすじ(Wikipediaより一部抜粋)
かつて指導者であった母から厳しい指導を受け、正確無比な演奏で数々のピアノコンクールで優勝し、「ヒューマンメトロノーム」とも揶揄された神童有馬公生は、母の死をきっかけに、ピアノの音が聞こえなくなり、コンクールからも遠ざかってしまう。
それから3年後の4月。14歳になった公生は幼なじみの澤部椿を通じ、満開の桜の下で同い年のヴァイオリニスト・宮園かをりと知り合う。ヴァイオリンコンクールでかをりの圧倒的かつ個性的な演奏を聞き、母の死以来、モノトーンに見えていた公生の世界がカラフルに色付き始める。
かをりは、好意を寄せる渡亮太との仲を椿に取り持ってもらい、渡と椿の幼なじみである公生とも行動を共にするようになる。公生はかをりに好意を抱くようになるが、親友である渡に気をつかって想いを伝えられないでいた。椿は公生のかをりへの恋心に気付き、また自身に芽生えた公生への恋心にも気付き苦悩する。
かをりは、公生のことを友人Aと呼び、ぞんざいに扱いつつも、自分の伴奏を命じるなど、公生を再び音楽の世界に連れ戻そうとする。また、かつて公生の演奏に衝撃を受けピアニストを目指すようになった、小学生の時からのライバルである相座武士や井川絵見にも背中を押され、母親の親友で日本を代表するピアニストの瀬戸紘子に師事し、公生は再び音楽の道に戻っていく……。
※Wikipediaのあらすじは結末まで書かれているため、未読の方は閲覧注意。
個人的に『四月は君の噓』は青春漫画の最高傑作だと思っています。いや漫画に限らずあらゆる媒体の青春作品を含めたとしても『四月は君の噓』は間違いなくトップクラスの名作として分類されるでしょう。それほどまでに素晴らしい作品です。
そんな『四月は君の噓』のどこに感銘を受けたのかというと、演出としての表現方法でしょうか。
『四月は君の噓』はあらすじにある通り音楽作品です。しかし漫画は映画やアニメと違って音響のない画がメインの媒体であるため、音を表現するのは不得意です。小説とかも同じく音をそのまま表現する方法がないので不得意であることに変わりありませんが、しかし小説なら文章を重ねることによってある程度のイメージは掴めます。同じ演奏シーンでも、たとえば「優しい音」とか「牧歌的な音」、「鋭利な音」「荒々しい音」「悲しげな音」などと言い方を変えれば、すべて違う音楽が奏でられていると捉えることができるでしょう。
一方で漫画作品の場合は絵だけになりますので、こうした「音」の表現は作画の工夫のみで描いていくことになります。そこに難しさは当然ありますが、しかしこれまでの漫画史を振り返ると様々な工夫と発明がありました。
よくあるのは、たとえば静まり返った場面において「シーン」と擬音を加えたり、他では迫力を演出するのに「ドドドドドドドドド!!」と書いたりする方法。これらの方法は今でこそ様々な作品で見かけると思います。コマの中に擬音を書き足すというのは、漫画作品においての有効な表現と言えるでしょう。
だがしかし、音楽を題材にした『四月は君の噓』の表現は他の漫画作品とは違うのです!
『四月は君の噓』には擬音がないのです!
擬音がないというと語弊がありますね。日常シーンでは普通に擬音が書かれていますし、軽く音楽が流れているシーンでは音符マークを散りばめています。使うべきところでは効果的に擬音を活用しています。
でもしっかりと魅せるシーン、コンクールの舞台の上で演奏しているシーンや、それこそ公生とかをりの出会いの場面においての演奏シーンには一切擬音は使われておらず、人物の表情や立ち姿、その場の雰囲気だったり空間にあるアイテムだったりといった、空気感によって音を演出しているのです。それは一見派手さのない地味な絵面となりますが、しかしそれだけにシンプルな見栄えとなり、まるで一枚の絵画を鑑賞しているかのような感覚になります。
音を表現するのに要素を足していくのではなく、逆に、あえて省いていくことによって表現する。こうした「引き算の表現」というのは、軽く衝撃的でしたね。
以前なにかのテレビ番組で『四月は君の噓』が取り上げられたとき、確か『ONE PIECE』の作者の尾田栄一郎氏が「聞こえる音楽」とコメントしていたような気がします(うろ覚え)。まさにその通りなんです! 聞こえてくるのですよ、画から音が!
ある意味では行間を読ませるタイプの演出だと思います。作中にあるはずの音を読み手の内側から引っ張り出していくというほぼ荒業みたいな試みですが、しかしそういった狙いがあるならばむしろ擬音や派手さなどといったものは邪魔でしかなく、結果足すのではなく省いていく方向になったのではないでしょうか。その末に、『四月は君の噓』の演奏シーンはほぼ一枚絵のような引き込まれる構図のコマとなっているのかと感じます。
こうした音の表現の工夫もありますが、もう一点、『四月は君の噓』という作品を形作る要素としまして、「文章のセンス」といったところでしょうか。
台詞だったりモノローグだったりする部分での文章が詩的……詩的というと若干ニュアンスが違うような気もしますが、ポエム的といいますか……(言っていること同じ!)、どことなく小説っぽい雰囲気があるんですよね。
漫画第一巻からモノローグを引用しますと(漫画には句読点がないため引用時に書き加えています)、
「椿の目にはきっと風景がカラフルに見えているんだろうな。僕とは違う。(中略)僕には。僕にはモノトーンに見える。譜面のように。鍵盤のように」
「ピアノは嫌いだ。それでもしがみついているのは、きっと僕には何もないから。ピアノを除けば僕はからっぽで、不細工な余韻しか残らない」
「演奏を終えたヴァイオリニストが待つ人のもとへ駆けよってくる。人だかりをすり抜け、花を抱え、ワキ目もふらず。まるで映画のワンシーンのようだ。(中略)僕は――。僕は、友人A役だったけど」
「気がつけば、茜色の雲のスクリーンに……、瞼の裏の暗幕にリフレインする。何度も、何度も、何度も。その度に僕の心は――、母さんが僕に残したものが散っていくようで――(後略)」
などといったものが印象的でしょうか。他には、
「君は春の中にいる」
「奏でた音は、春風に攫われた花のようにもつれながら、遠ざかって消えてしまう」
「僕は暗い海の底にいるように、何も聴こえない。誰もいない」
などでしょうか。
比喩表現も用いて書かれているモノローグは、作画だったり実際のストーリーだったりと合わさることで、さながら小説の地の文のようなテイストに化けます。……というか『四月は君の噓』はモノローグがとにかく多い! そういう観点から見ると、『四月は君の噓』は漫画を読むというよりは一人称小説を読んでいる感覚になるのです。こういった一人称で描かれているからこそ、作品の根幹である「青春」の表現に磨きがかかっているような印象を受けました。というかコレ小説として読んでみたい!
このように「行間を読ませる引き算の表現」や「一人称小説のような深みのある文章」などが組み合わさった結果、『四月は君の噓』という漫画は実に小説的な作品だったという感想を抱きます。
そういった部分が他の漫画作品とは違うところでもありますし、こうした特有の表現方法であるからこそ、自分みたいな小説を読んで書いている人間としては刺さる部分があまりにも多すぎるのだと思います。
まあ単純に、自分が青春作品が大好物だからこそどっぷりハマっているとも言えますけどね。
こんな感じで、私のお気に入り作品『四月は君の噓』について語らせていただきました。万人にオススメできる作品ですが、とくに小説好きの方に読んでもらいたい作品でした!
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