サマーフィッシュストーリー

羽田とも

始まりと終わり

 名前は太郎。

 そう呼ばれている。

 だが返事はしたことがない。



 それは例年よりも暑いと言われていた夏が始まる少し前だった。例年とはいつの年を示すのか私にはわからないのだが、店主曰く「毎年毎年この時期には同じように例年より暑くなるんだから、もう例年の比較は一秒前とかじゃないのか」と言っているのを聞いたことがある。恐らくつい先程が“比較するべき例年”なのであろう。そして、今も比較するべき例年だという事だ。

 私にとって「例年より暑い夏」と言うキーワードは大した意味がない。来たるべき夏、来たくなくても律儀に来る夏、呼んでもないパーティーにひょうきんな顔して来る夏など、そんな感覚である。もっと言えば、別に来ようが来なかろうが意気揚々だろうが渋々だろうが勝手に来てろ、と言うのが素直な気持ちである。オブラートだって口に入れば溶けるのだ。

 そんな私の思考を知ってか知らずか、案の定例年よりも暑い夏が来たのだった。相変わらず青い空と白い雲が潔く流れていたが、それは夏だからと言って特別なものじゃない。四六時中空を眺めていたら同じような雲も流れることはある。空だって真っ青が連日続くこともある。なのに、大抵の連中は真っ青の空と大きな雲を一緒に見た途端に「夏っぽいね」と口をそろえて言う。そっくりそのまま、その台詞を言う奴には「バカっぽい」と言ってやりたい。


 「お母さん!夏っぽいね!」

 来たぞ、バカっぽい奴が。

 夜が始まり、暫くしてその声が雑踏を掻き分けて聞こえてきた。針穴に糸を通す程、繊細な作業をこなして聞こえてきたのが、その声だとしたのならば甚だ耐えるに耐えれない事だ。して、その主の声はするが姿が見えず。興味はないので眠ろうと思ったが、また「くぅ、夏だねぇ」と聞こえてきたので、これは一度くらい姿を見てやろうと興味が湧いた。針穴に糸を通した後に、更にその糸が違う針穴まで通ったのだ。なかなか、そういう経験は味わえないと思った。そしてなによりも、夏と言う単語を二度も連発して言うのだから、よっぽどの、オブラートに包んで言うならば“おバカ”なのだろう。

 私は目で声の主を探す。しかし、なかなか見つからない。如何せん賑やかな太鼓と鐘の音が響き、あちらこちらで人々がぺちゃくちゃと話しているので集中出来ないのだ。何もたかだか木造の持ち運ぶ目的だけの建造物を見るのに、ここまで人が集うのもバカっぽいと思う。なのに、動きにくそうな割に派手な布地を身に纏って、雲のような形をした食べ物や、人の顔を切り取った面を付けたりし、更なるバカっぽさに拍車をかけている気がする。それを知ってか知らず、いや、知らないのだろうけれど、人々は楽しそうにしている。


 「お母さん!お母さん!これね!するの!」

 私はふと目を上げる。そこには桃色と水色の朝顔が描かれている赤地の着物を身に纏った女の子がいた。髪の毛を二つくくりにして、赤い丸い球体のゴムで束ねているようだった。それに加えて頬も真っ赤に染まっている。どこか私に似ている、と思いながら女の子を見ていた。

 女の子の見た目からして、恐らく幼稚園児くらいであろう。

 「もお、仕方ないわね。一回だけよ?」

 女の子の母親と思しき人が女の子の背後から優しそうに声をかけていた。じめっとした暑さとは似つかぬ、涼しそうな声で透明感のある色白の人だった。

 「やった!やった!」と女の子は歓喜し、母親は腕にかけていた巾着袋から蝦蟇口財布を取り出した。数枚の硬貨を女の子に渡す。女の子は両手で大事そうに硬貨を扱い、店主に手渡したのだった。代わりに、薄い紙を張ったプラスチック製のポイ

を女の子は受け取った。女の子は袖を捲り上げて鼻息を鳴らし「よし、やるぞぉ」と言って水面へと顔を近づけた。

 そして、その数分後には私は女の子と母親の間で、ユラユラとビニヰル袋の中で揺れているのだった。最後の祭りの景色を目に焼き付ける。店主の顔も見ようと思ったが、それは止めておいた。店主は私のことなど覚えてもいないだろうから。夜に響く祭囃子の音が私のかわりにサヨナラと告げてくれている気がした。


 出会いは、こうして突飛よしもなく現れるのだ。望まずして目の前に。現に私は“バカっぽい”と脳内で罵っていた相手が

今は私を愛でてくれている。オブラートも溶けてしまえば、スムーズに気持ちのやりとりを行える事を知った。

 流石に長い間広い場所にいたので、こうした狭いビニヰル袋の中にいるのは苦痛であった。それを察してくれたのか、女の子の母親が家に着くなり、今時珍しい金盥に水を張って私を解放してくれた。思いっきり私は伸びをするように泳ぐ。


 「お母さん、太郎が元気に泳いでるね!」

 「太郎?」

 「そう、この子の名前は太郎って言うんだよ。お母さん知らなかったの?」

 「へえ、そうなのね。宜しくね太郎ちゃん」


 女の子と母親のやり取りの中で、私は初めて名前を与えてもらえたのだった。それは自然の流れで、女の子が以前から私の名前を知っていたかのようにして呼んでくれたのだった。また、母親も上品に笑いかけるようにして呼んでくれた。

 私の名前は“太郎”と言う。

 少々恥ずかしいが、それでも不思議と悪い気はしていなかった。仲間もいなく独りぼっちになったが、元来孤独に憧れてもいたので平気ではある。しかし、それでも、心の何処かかで私は二人にすくわれて良かったな、と思っていた。水泡を幾つか浮かべて感謝の意を伝えるが、当然届くことはなかった。


 月日は暫く流れる。

 私は金盥ではなく水槽の中で悠々自適な生活をしていた。作り物の水草や、ジャラジャラと音を鳴らす為にあるような小石。ブクブクと私の呼吸と同じ気泡を出す管。私は今、ここで生きている。

 私が初めて帰った夜に女の子の父親が大きな水槽を手にして帰ってきた。母親が父親に頼んで買って帰ってきたらしい。水槽の他にも私が生きるのに必要最低限の道具も手にしていた。

 私としては願ってもいなかった。

 如何せん私自身で言うのも引けるのだが、たかだか屋台で産まれた生き物である。故に一番最初に泳がしてくれていた金盥でも良かったのだ。噂ではビニヰル袋の中で息を引き取る仲間もいると聞いたことがあった。金盥に移し替えてくれただけでも感謝に値する。しかし、こうしてきちんとした水槽に住まわせてくれるのはありがたいことであった。

 水槽は三人の行動が良く見える場所に設置されていた。ここで私たちは衣食住共に過ごすのだった。


 「太郎ちゃん、ほら、網に入って」

 ある日、お母さんが私を網に入れようとする。月に一度、こういう行為をされるのだ。私は網は苦手だ。鱗に引っかかり痛く、時には鱗が千切れてしまうこともあるのだ。あれほど痛いことを私は経験したことがない。それでも、お母さんは私を網にいれる。嫌がる私。奮闘する母。

 嫌がると言うことは暴れると言う事である。言葉は話せないので態度で示すのだ。

勿論暴れると水しぶきが舞う。床などがビチャビチャに濡れる。それだけに止まらずお母さんもずぶ濡れになる。自然の摂理だ。魚が暴れたらば何かが濡れるのは至極当然。それでも、お母さんはイヤな顔せずに「イキの良い魚だこと」と言って笑っている。時に目が笑っていない事もしばしばある。そういう時はその内、私はまな板の上で目を覚ますのではないかと少しばかり恐怖を覚えるのであった。

 網に捕まり初めて泳いだ金盥に移される。そして、そこからお母さんは水槽の清掃をする。止むを得ないことだ、と言い聞かせる。餌も食べ残すし、糞もする。するだけして、自らは片付ける事が出来ない。そこは諦めている。しかし、それでも何か役には立てないものかと思う。思うだけであり解決策など出てくる事もなく、よって私は居たたまれない気持ちになり暴れるのだ。すると遠くから「こらっ!太郎ちゃん!暴れないで!」とお母さんが怒鳴る声が聞こえるのであった。

 

 「太郎、腹減ったろ」

 そう言ってお父さんは私に餌を与えてくれる。毎度時間は大体決まっている。三人が夜ご飯で食卓を囲んだ後だ。  

 パラパラと水面上に落とし、私はパクパクと息つく暇もない勢いで食べ続ける。決して美味しいわけではないが、決して不味いわけでもなく。私としては食べれるだけでもありがたいことであった。

 「美味しいか、そうか」と、お父さんは話しかけてくれる。餌をある程度浮かべたら、お父さんはじっと食べている姿を鑑賞するのが日課であった。その時は黙っているわけでなく、その日にあった出来事を事細かに説明し、そしてどう感じどう対処したのかを付け加えて話してくれる。私は相槌など到底打てるわけもなく、ただただ浮かぶ餌だけを食べ続けているしか出来ないのであった。 


 ふと思うのだ。

 お母さんが掃除をしてくれている時や、お父さんが餌を与えてくれている時など、以前の私ならば「バカっぽい」と一言で片付けていた。なのに、最近の私はそう言った行動をしてくれるのだから何かお返しをしなくてはならないと思ってしまう。それに気付いた時に私は恥ずかしくもあり、不思議と嬉しい気持ちになっている。それこそ私の言葉を借りれば「バカっぽい」ことになるのだろう。


 更に月日は流れる。

 女の子も二つくくりをとうの昔に止めて、今では派手に茶色の髪になっていた。しかし、今でも頬は赤く染まっている。

 「太郎もさ、大きくなったよね」

 女の子は長い爪先で水槽をコンコンと叩く。最近は少しの振動でも目が回る。止めてとは言えないので暫く辛抱をする。

 「太郎、何歳になったんだろ」

 女の子が卒園する歳に、この家に来た。そして、今、女の子は高校生である。かれこれ10年近くであろう。私も聞いて驚いたものだ。以前、お母さんとお父さんの会話を聞いて知ったのだが、私たちの平均は10年から15年らしい。要するに私も一歩越えてしまっているのだった。

 「太郎ちゃん、随分と大きくなりましたね」とお母さんが、女の子に話しかける。相変わらず優しそうな声だが、昔より透明感はなくなり、その代わりおっとりとした質に変わっていた。


 「うん、そうだね。じゃあ、行ってくる」

 「えっ、もう夜中ですよ?何処に行くんですか?」

 「彼氏の家ー夏休みだからいいでしょー」

 

 お母さんが止める暇もなく女の子は出て行った。お母さんは溜め息を吐く。高校生になるまでは大人しかった女の子だが、アルバイトをし始め、そして彼氏が出来て、見る見るうちに以前とは違う雰囲気になってきていた。子供は成長するのが当たり前なのに、私としても、恐らくお父さんもお母さんも同様に寂しくなっていた。

 ただいま、とお父さんが帰ってきた。

 「お父さん残業お疲れさまでした」とお母さんが出迎えに行く。

 ネクタイを緩めながら食卓にある椅子に座りつつお父さんは話し出す。

 「さっき、あの子に会ってコンビニにお使い頼まれたって言ってたが、それなら俺に頼めば良かったのに」

 「また、あの子はそんな嘘をついて……」

 この流れが日常的になりつつあった。以前より変わらずして、お父さんとお母さんは接してくれるが、女の子だけはどんどん離れていくのであった。私も随分と歳を取り、些かそれに対しての気持ちを持ち合わせていないことを理解している。しかしながら、それでもあの日のようにまた笑って話し掛けてくれることを心の何処かで願ってもいる。爪先でノックされるのでなく、柔らかい掌で水槽のガラスを撫でてくれるように、と。


 その時だった。


 グラリと身体の中に重たい衝撃が走った。それは一瞬にして多大なる一撃だった。私は数秒の間動けずに意識が遠のく。そして、気付いた時には天地が逆さまになっていた。違う、と私は否定する。自分が逆さまになっているのだ。慌てて常体に戻そうとするが、簡単にはいかず手こずっていた。ジタバタと暴れる。波立つ水面。誰にも気付かれたくないのに、早く気付いてほしいとも願う。

 「えっ、太郎ちゃん?どうしたの?」

 お母さんが気付いてくれた。なんたる失態だ。面目ないと思うが、こればかりは背に腹は代えられない。助けを待つしかない。

 お父さんがシャツの袖を捲り、波が立つ水槽の中に腕を落とす。水位が少し上がる。温もりのある大きな手で、そっと私の身体を包み込むように手で元に戻してくれる。一安心する私たちだが、ものの数秒で再びグラリと回転し、元に戻ってしまったのだった。

 その後何度かお父さんとお母さんが私を元に戻してはくれたが、どう言うわけか私はひっくり返ったままだった。

 「太郎ちゃん……」

 お母さんの声が少し震えて聞こえる。泣かないで、お母さん。そう言えたならどれだけいいか。お父さんが、お母さんの肩を抱えていた。


 私は死ぬのだ。こればかりは逆らえない事だ。それに私は長生きをした。本来ならば、あの祭りの日に誰からも見向きされなければ、その年の夏は越せていなかったであろう。しかし、こうして生きてきた。今の今まで生きてきたのだ。更に、お父さんとお母さん、そして女の子から与えられる愛情ももらえた。最期に我が儘が叶うならば、なんて考える私は“バカっぽい”のだろう。


 「ただいま」

 玄関から声が聞こえる。女の子の声が聞こえる。先ほど出て行ったばかりの女の子の声が、そこに聞こえる。

 「太郎、大丈夫?」

 血相を変えて水槽の前に座り込む女の子は、相変わらず頬が赤く染まっている。今も今までもお揃いだね、と思う。

 お母さんが呼び戻したのだろうか、その真相は定かでないが私は嬉しかった。

 久しぶりに家族がそろったのだ。私はそれが嬉しくて仕方がなかった。


 「太郎、内緒だよ?」と女の子が話し掛けてくれる。髪の毛は二つに結ばれていた。

 女の子は水槽の蓋をあけて、大きな茶色の固まりを投げ入れる。チャポンと音が鳴る。私は、それに口を当てに行くがとてもでないが食べれる大きさでなかった。

 「これね“チョコレート”って言うんだよ。太郎、美味しいからお食べ」

 女の子は口の周りをベトベトにして笑顔で私に言う。一緒に美味しいのを食べよ、と付け加える。私は食べようと試みるが、やはりそれは口には入らなかった。でも、心は満たされている気がした。


 「太郎、内緒だよ?」と女の子が話し掛けてくれる。髪の毛は二つに結ばれておらず、ショートカットになっている。

 女の子は赤いワンピースを着ているが、それがドロドロに汚れていた。

 「また喧嘩しちゃったんだ」と女の子は言う。仲良くしたいのに、どうしても仲良くなれないの。女の子は更に泣きそうな声を出しながら言う。

 「私と太郎みたいに仲良く出来ればいいのにな」

 女の子は笑いながらワンピースを脱いで、脱衣場に向かって走っていった。


 「太郎、内緒だよ?」と女の子が話し掛けてくれる。髪の毛は茶色に染まり、メイクもこなしている。それに一人ではない。

 名前も知らない誰かの手を引いて奥の自室へと向かう。お父さんもお母さんも仕事で家をあけていた。この空間には私と女の子と、その名前も知らない男の子しかいないのだ。

 「太郎って言うんだ。うちのペットって言うか家族みたい」

 女の子が男の子に話をしている。ただただ嬉しくて仕方がなかった。私を“家族”と言ってくれたのが、ただただ。


 女の子がいればドタバタと騒がしく、夜でも明るい空間になる。私は女の子が好きだ。辛くても笑っている女の子が好きだ。泣いても次の日には笑っている女の子が好きだ。怒られても笑っていている女の子が好きだ。笑っていない時の女の子は全力で悲しい顔をしている。それも好きだけれど、やっぱり笑っている時の方が好きだ。

 だから、そんな寂しい目はしないでおくれ。

 私の記憶にある、二つ結びの女の子、ショートカットの女の子、そして今の女の子はみんな笑い顔をしている。だから、笑っていておくれ。そう思うだけで、私の気持ちは伝わりはしない。プクプクと水泡だけが、ゆっくりとゆっくりと浮上し弾けるだ

けである。


 お父さんが「さあ、夜も遅いからみんな寝よう」と言う。お母さんも「そうね」と返事をするが、女の子だけは「もう少しだけ」と膝を抱えて呟いた。

 「太郎はな、明日の朝も次の朝もここにいてるから」

 お父さんは女の子の頭に手を二度ほど軽く撫でて話しかける。高校生であるはずの女の子は、二つに結ばれたあの当時の女の子とやはりそっくりであった。

 指先で水槽を撫でて女の子は言う。優しそうな、綺麗で透明感のある声で女の子は言う。

 「ありがとう、黙ってくれてて」


 世界は狭い。私の生きてきた世界は狭い。ブルーのポリエチレン製の桶から始まり、ビニヰル袋から金盥を経て、この水槽へと移り変わってきた。思い出なんて、ほとんどない。あるとしたならば、ここの人たちの愛情だけである。

 口をそろえて「太郎」と呼んでくれた。家族として受け入れてくれていた。犬のように共に走り回ることも出来ない。猫のようにじゃれることも出来ない。水がなければ生きていけないのにも関わらず、きちんと隔たりのない愛情を注いでくれた。私は思う。幸せと言う形を表すならば、私を見てくれと。

 

 時間は流れる。ルールもなにもなく。ただだ、流れるして流れる。

 「どうか、もう暫く私を生かして、この人たちに恩返しをさせてください」

 最期の願いは叶うはずもなく、ただただ私の最後の水泡は弾けて割れてしまった。

 

 「太郎ちゃん……」

 「うん、私も寝ちゃって朝に気付いたら」

 「また、三人だな」


 それは夏の終わりの出来事だった。どこかで祭囃子が聞こえてくる。

 明るく朝の光に照らされた水槽の筈なのに、そこには光が反射して夏の夜、私たちが出会った光景が映し出されていた。

 それを見て私は「夏っぽいね」と静かに呟いた。



 名前は太郎。

 そう呼ばれている。

 だが、私は女である。

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