若いころって、そういう意味では自分が分裂してますよね。

 当時はですね、不登校だったのですけど、学校でできた友だちや親しい先輩がたとは、とても仲よくさせてもらってました。

 そういうひとたちとホームページやブログのアドレスも交換してたので、私もブログは読んでもらってました。


 いまでこそ私は顔文字はいっさい使わなくなったのですけど、当時はいろいろと用いてましたね。まあ、そういうのが流行りの時代、世代だったんです。某大型サイト発祥の。みたいなね。発祥ではあるけど、あまりそこまで決定的な関係はない、みたいな。じっさいそういう顔文字を使ってても某サイト自体は怖くて行ったことないー、みたいな友達の話を聞いたこともありました(小学生のときですが、書籍化したアスキーアート集がほしくてほしくてたまらなくて、でも近所の本屋で買ったらそういうの知ってるのバレちゃうじゃん!!っつって、でもネット通販が盛んだった時代でもないしそもそも年齢的に無理だったので、なにを血迷ったか、父親に頼み込んで近所のツタヤに買いに行ってもらったのはなんとまあある意味で小学生らしい想い出とでもいいましょうか……。


 やっぱり思うのが、顔文字や記号的表現(「草」とかもそうですよね)っていうのは、外向けの表現なのですよね。当時そういうのをブログやメールではじゃんじゃか使っても、ワードの文章や小説ではまあ使わないわけで(携帯小説は例外的だったのかな)。自分の思考を高める、深めるというより、やっぱりだれかの目があって、そこにわかりやすいように、伝わりやすいように、顔文字をつける。つまりしてコミュニケーションの文章、といったことだと思います。こうやって言ってみれば、当たり前のことですが!!



 で、そういうのって、容易に両立、並列して。

 だからこう、

 たとえばいまツイッターとかでかるーいノリでかっこわらいとかつけながらつぶやいている、いまの中高生のかたがたとかも、

 そういうのはね、どっかにね、秘めてる。あるいは存在する――と、私は思っているわけなんですよ。



 ……そういうわけで。

 私自身も、中学生という状態だったころはそうやって自分をわけてたんだよ――と、そういうのを伝えたい連載でもありました。

 私がというよりは、ひとりの中学生としてですね。

 ひとりの引きこもりの中学生がいて、いろんな文章を書いて、でもそういうのってほんとにいろいろ、なんです。



 統合できるっていうのは、おとなのもっとも充実した幸福のひとつだな、とさえも思いますよ。

 自分自身を、統合できるのはね……。

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