いろんな側面があるわけですよ。じゃないですか。
まあだからっつって、たとえば私が当時彼女や彼に向けていたほどの熱量をもってして、いまの私の文章を見たいと思ってくださっているかたがどれだけいらっしゃるのかも、そもそもいらっしゃるのかもわかりませんし、でも自分でそこを限定して推し量るのはかえって失礼な結果となると思うのです。
私が見てきたそういった文章をお書きになるかたは少なからず、むしろ多くが、自分自身にギャラリーがいないことを嘆いたり自分自身で嘲っていました。こんな駄文は、だれも見てない、と。もちろん、そんなことはなく。応援を表面化するかどうかはそのとき次第でしたが、私はその文章を読みながら、いる、いるいる、だれも見てなくない、ここに、こんなに、あなたをおっかけてるかたがいる、と気持ちも指先も熱を、もったものでした。
得てしておもしろい小説や作品をつくられるかたは日記もおもしろかったのです。ユーモアに溢れるひとも多かったですね。あるいは、たったひとこととかの一見そっけなくやる気のなさそうな更新なのですけど、日々のお昼ごはんとか、家のソファの写真とかアップしてて、ああこのひとはたしかに世界に生きてるんだと思わせてくれるんですね。
まだ、SNSというのは言葉さえも存在しなく。そのなかでいまでいうツイッター的なノリで、大好きな思考をもつ大好きな作者さんの大好きな作者さんがご自分で切り取った日常を、遠い窓越しに覗き見ることができるのは、大層、大層どきどきする経験だったと断言できます。
シリアスなものを書かれるかたが日記ではっちゃけてる(表現が古い? こういう時代の話をしているので、あえて)のを見ると、息が一瞬とまってしまうほどの圧倒的ななにかを感じたものです。
べつに、だから私も、などと便乗する気ではないのですが、いえ、結果的にそうなってしまうのですが、私も自分自身のための文章とブログと小説では、まったく文体や雰囲気が異なっていたのですね。や、ワードの文章と小説は若干似通っていましたか。でも、すくなくともそうやって使い分けるわけですよ。そしてどれかひとつだけではなく、そういうのぜんぶが私の書いた文章なんですよ。私が焦げるほど焦がれたあのひとたちのように。当たり前、なんですけども。
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