第31話
ようやく透子が眠ると、明は起こさないようにそっとベッドを降り、ベランダに出た。まだ小粒の雨がぽつぽつ降り続いている。
肌寒い。けれど、混乱気味の頭を整理するにはちょうどいい。
急に学校に行きたいなどと――。あの男…藤木に何か言われたのだろう。とてもまっとうな、正義感溢れた言葉を。
「……余計なことを」
外の世界に憧れを持っていたのは知っていた。口には出さなかったが、それを無理だと諦めていることも。けれどいつか、こんな日が来るのではと恐れていたが、思っていたより早かった。しかも好きだった男の助言によって。
あの男に恋をしている、と気づいた瞬間からずっと苛立ち、怒りが腹の底で渦を巻いていた。確かに暇つぶしの話し相手にでもなれば、とは思ったが……。まさか一回り以上年上の警察官を好きになるなどと考えてもみなかったのだ。落ち度は自分にある。今回はたまたま犯罪者だったからよかったものの――これからはもっと慎重に、会わす人間を厳選しなければならない。
「……さん……」
部屋から寝言が聞こえ、振り返った。藤木の夢でも見ているのか。不愉快そうに明は顔をしかめた。
これからも藤木の存在に悩まされるに違いない。一度想った人を忘れるのは容易ではないだろう。それもあんな形で裏切られて終わったのだ。傷ついていないはずがないのに、先ほどの透子の目は未来を見ていた。
正直、驚いた。今夜はさすがに打ちひしがれるんだろうなと思っていたから。自分はただ傍で慰めていればいいと。だがそうではなかった。
『話があるの』
藤木が怪しい、と切り出した透子の顔を思い返す。
初めての喧嘩だった。あの雰囲気の悪さを、向こうから打ち破るとは、と驚いた。話の内容ももちろんだったが、それ以上に好きな男の言動の矛盾に気づき、冷静に結論を出している透子自身にも驚いた。見て見ぬ振りをして、藤木の言うとおり、駆け落ちする決心をしてもおかしくない状況だったのだ。
透子の寝顔をベランダから眺める。自分よりずっと繊細な、美しい顔。何故周囲が見分けられないのか不思議でならない。
今回のことで何かを学んだのだろう。今まで明を介してしか父と会話できなかったのに、学校に行きたいと訴える決心は固そうだ。
自ら踏み出す勇気、といったところか。
ふん、と鼻で笑ってしまった。無理だろう。父が透子を外に出すわけがない。目が見えず、子を産む能力のない娘を恥じている、あの父が。
要求を却下されて落胆する透子を慰めるのもいいが――、やはり可哀相だ。透子の願いは叶えてやりたい。それに、不満が溜まっていつか爆発されないためにもある程度の要望には応えてやらないと。
僕も今回のことで学習した。そういう意味ではあの男に感謝しなければならない。家の中に閉じ込めて、可愛がるだけではダメなのだ。
明日父が帰宅したら、事前に会って話を通しておこう。自分の言うことなら父は聞く。それは愛情からではない。跡取りとして勉強している内に、父の弱みを握ったためだ。透子は誤解している。父は自分にだけ優しいように見えて、機嫌をとっているに過ぎないのだ。
透子は自分の力で父親を説得したと信じ、喜んで学校へ行くだろう。
「学校、か……」
盲学校はこの町にはないはずだから、近くの女学校にでも入れよう。金持ちの、世間知らずのお嬢様ばかりいるところがいい。学校へ行くとどうしても出会いが多くなる。変に自立心旺盛な娘に影響されては困る。
目が見えないくらい、父親の金と権力でなんとでもなる。特別学級を作ってもらうか、透子専用の教師をつかせるか。自分もそうやって特別扱いを受けているのだ。
「明……」
また寝言が聞こえ、「なんだい」と返事をした。
そう、自分は聞こえている。昔は本当に透子に触れている時にしか聞こえなかったが、いつの頃からか耳に音が入るようになった。それでも聞こえないフリを続けているのは、透子から離れないためだ。
「――誰にも、渡さないよ」
もともとひとつだった魂。僕だけが透子を理解し、透子だけが僕を受け入れてくれる。誰にも僕たちの間に介入することは出来ない。たとえこの先、透子の目が見えるようになったとしても、この関係は崩させない。
『血の繋がった身内がどんなに大切か……貴方にならわかるでしょう?』
「わかるさ」
藤木の言葉が蘇る。分かり過ぎるほどだ。僕がお前の立場でも、同じことをやる。
妹もどれだけ命が持つかわからないが、有名な病院に入れてやろう。透子が気にしているようだったから。
恩を売って、理解する振りをして、受け入れて、信用を得る。全て語らせ、僕から離れようとする要因を排除する。透子の見えないところで。
透子の寝顔を飽かずに見つめ、頬にそっと触れた。
「愛してるよ」
どこにも。
閉じ込めて、決して出さないよ。
この、透明の匣に。
透明の匣 雨降子 @kosumosuko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます