第17話

第17話

「透子の話し相手くらいには、とは思ったが……油断していたな。警察官だからと安心していた。僕が悪かった」


 ベッドにどっかと座りこみ、明は吐き捨てるように言った。


「黙って出て行ってごめんなさい。でも藤木さんは本当に悪くないのよ」

「どこに行っていた?」

「孤児院よ」

「どうやって?」

「徒歩で。一時間くらい歩いて……」

「なんのために? そこの子どもたちより貴女のほうが全然マシな暮らしをしているんだからと優越感を植え付けられたのか」

「そんなこと言ってないわ、あの子たちと何ら違わないのだから、前を向いて……」

「同じだよ」明はバッと立ち上がった。「言い方を綺麗にしているだけで、言ってることは同じだ! そうやってすぐに人の言うことを信用するから、透子は外に出られないんだ!」


 手が離れ、視界が真っ暗になった。


私が人を信用するから。

だから私は外に出られないの?


「だって……私は知らないもの……。何を信じて、何を疑えばいいか、誰も教えてくれないじゃない。私とまともに話してくれる人なんか、誰もいないじゃない!」

「僕がいる」


 肩に触れられ、明るくなる。透子は「違う」と首を振った。


「さっき、私は今までどこを向いていたんだろうって考えたの。――明だけよ。明の方しか向けなかった。明しか私を見てくれない……それでいいと思ってたわ」


 明と入れ替われば、父は私を見てくれた。はじめはちょっとした子どものいたずら心だった。二人でいても明にしか優しい言葉をかけられないことを、羨ましく感じていたから。


それは『私』ではない。父が見ているのは明なのだ。それでいいと思っていた。でも――本当は嫌だ。私自身を見て欲しい、私の声で、透子として、話をして欲しい……!


「でも、明だって……本当に私を見てくれてる? 私といると耳が聞こえるから、便利だから傍にいるだけじゃないの?」


 明が凍りついた。手が離れ、また視界が暗くなる。けれど懸命に訴えた。


「藤木さんは何もできない私を励ましてくれたの。劣等感なんか捨てて、やりたいことを頑張ればいいって。ただそれだけなの」


 あの人が初めて、透子という人間に関心を示し、言葉をくれた。こんな私を励ましたって、何の特にもならないのに。


「――本当に、それだけなのか?」


 低く、抑えた声。今度は透子の方から明に触れた。


 目の前にあるのは、奇妙に冷めた顔。

 ふい、と体を離され、また暗くなる。


「……どういうこと?」


 真っ暗で、明の考えがつかめない。さっきの表情――一瞬見えた冷たい瞳。見間違い? 信じたくない。あれが、私に向けられたものだなんて。


「あいつは士族だ。父親は華族になりたかったが事業に失敗して自殺している。父親が果たせなかった夢を、自分が果たそうとしても無理はない」

「華族に……?」

「透子と結婚でもすれば、爵位が上がるとでも考えているのか」

「明……!」

 思わず明にしがみついた。目の前に顔があったが、目が合うことはなかった。


「あいつが、好きなのか」


 床に視線を落としたまま、明が問うた。透子は目を見開いた。


「好き……? だなんて、そんな……」


「少し前から様子がおかしいと思っていた。あの男に恋をしたからなのか。一回り以上年上の男だぞ」

「明……、今日遅くなるって言ったのは……」


 藤木の身の上を調査していたから?

 続きは言わなくてもわかったようだ。明は唇の端を上げ、微かに頷いた。


「病弱な妹もいるようだね」

「もうやめて」透子は明から手を離し、耳を塞いだ。「聞きたくないわ」

「まぁ、彼は優秀な警察官らしいよ。将来は有望なんだって」

「やめてってば!」

「有望なのに、何故今日に限って余計なことをしたんだろう? 同情? それとも透子のことが好きだから? だとしたら泣かせるよね。上司の評価が下がるのも厭わずに力になってあげようとしたんだから」

「どうしてそんな意地悪言うの? 謝ってるじゃない!」

 涙が滲んだ。どうして些細な、楽しかった思い出をこんな風に汚されなければならないんだろう。


「あいつはダメだよ」明はそんな透子を無視し、更に続ける。「会うのは今日で最後だと思うけどね」


 言い捨てて、出て行った。透子は遠ざかる足音を聞きながら、頭をかかえてしゃがみ込んだ。視界の明暗を何度も繰り返したせいで、真っ暗闇の中にいるはずの今でも光の残像が見える。視界がチカチカして、頭が猛烈に痛んだ。


 痛みに耐えながら、一晩中泣いた。

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