第15話

第15話

手をひかれながら知らない道を歩く。初めての経験だった。温かい、大きな手。大人の男性とは、こんなに逞しいものなのか。


「静かでいい街ですね、ここは」藤木はのんびりと言った。透子の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。「昼間は人通りがとても少なくて穏やかだ。住宅地だからかな。少し歩いても平気ですか?」


 初めての外出に胸がいっぱいだった。進み続けても何にもぶつからず、行き止まりがないことに感動していた。


 どこに行くのかは聞かなかった。どこでもよかった。ただ街を歩けるだけで嬉しかった。


「――藤木のお兄ちゃん」


 一時間ほど歩いただろうか。子どもの呼ぶ声がした。呼ばれた藤木は、「やあ」と言いながらどこかの門を開けたようだ。キィ、と音がして「どうぞ」と促されるまま、中に入った。


「あっ、藤木兄ちゃんだ」

「また来てくれたの?」

 複数の足音が寄ってくる。


「ここは、孤児院です」藤木が言った。「この子たちには親がいません。この院に引き取られて、共同生活をしているんです」


 本当にいるんだ、そんな子たちが。


本で読んで知ってはいたが、家から歩いて行ける距離に、孤児院があったなんて。


「お姉ちゃん、目が見えないの?」


 着物の裾をツンと引っ張られた。ええ、と返事をすると「この子も目が見えないんだよ」と手に、小さな手が重ねられた。


「こんにちは」

 可愛い女の子の声。しゃがみ込んで頭を撫でてやると、顔を両手で触られた。ぺたぺたと、感触を確かめるように。


 なんだかそれだけで、何かが通じ合った気がした。温かい空気が胸に流れ込んでくる。


 遊ぼう、と誘われた。見えないのに遊べるのか不安だったが、子どもたちは気にすることなく鬼ごっこやかくれんぼ、おはじきやあやとりなど色々と教えてくれた。


「透子ちゃん、ヘタクソだなぁ」

「だって初めてなんだもの」

「貸せよ、こうやって裏返すんだよ」

 遠慮のない物言いが心地いい。


 暖かな陽気の中、孤児院の中庭で子どもたちに囲まれてめいっぱい遊ぶ。絶えない笑い声。臆することなく触れてくる、迷いなく引っ張っていってくれる、手。


 友達って、こういうことなのかしら。


 そこには障害も、身分も関係ない。ここにいる誰も気にしない。何の壁もなく、あるがままの自分を受け入れてくれる。


 しばらく時間を忘れて遊びに夢中になっていると、院長に挨拶に行っていた藤木が戻ってきた。


「楽しそうですね」

「はい、とても」

「ここには親がいない子どもたちばかりです。目の見えない子も、耳が聞こえない子もいます。そういう障害が原因で、親に捨てられた子も」

「そんな……ひどい」

「ひどいことです。けれど皆、悲観してはいない。与えられた環境で、自分たちで助け合って、楽しみながら生きています」


「そうですね……」溌剌とした声。飛び跳ね、駆ける音。「私の悩みなんか……あの子たちに比べたらどうということはないですね」


「そうじゃない、私が言いたかったのは、透子さんもあの子たちと同じということです。あの子たちは生きることを決してあきらめない。親に暴力をふるわれても捨てられた過去があっても、今は笑って生きている。透子さんだって前を向けば一歩進めるはずだ」


 前を、向けば……?


 はっとした。自分は今まで、どこを向いていたのだろう。

 誰も私など見てくれないと、拗ねて、ただ諦めていた。


「――勉強がしたければ、盲学校というところもあります」


「もう……学校?」

「目の見えない人たちが通う学校です。またはお父上に家庭教師を増やしてもらうとか。遠慮していないで、駄目だと諦めてしまわないで言ってみてください」


 言えるだろうか、私に? 勇気を出して、父に――。父の自分にたいする無関心な姿を思い出す。その背中に、自分から声を掛けると想像しただけで足がすくむ。


「どうして、そんなに熱心に言って下さるんですか」透子は言った。「こうして連れ出してくれたり……、どうしてそこまでご親切を……」


「あ……いや。すみません、私なんかが熱くなって……余計なことを」藤木は急に言葉を濁し、少し沈黙していが、何かを思い切ったように、「私には」と口を開いた。


「一〇歳になる妹がいます。たった一人の家族なんですが……心臓が弱く、あまり長く生きられないかもしれないんです」


「え……」


「ずっと入院していましてね。医師も手を尽くしてくれていますが……。このままやりたいこともできず死んでいくのかと思うと、兄として、とても辛いんです」


 かける言葉が見つからない。こういう時どういえばいいのか、友人もいない透子には検討もつかない。


「すみません、暗くなってしまいましたね」気を取り直したように藤木の声が若干明るくなった。「だからというわけではないんですが、透子さんには頑張ってほしいのです。せっかく、健康なのですから」


 そうだ……、私はまだ何もしていない……。


「あ、そうだ。会わせたい人がいるんです。ちょっといいですか?」


 手をひかれ、歩いている間、何故か繋がっている手を妙に意識してしまい、心臓の音が手から伝わらないかと一瞬恐れた。


建物の中に入って行く。ドアを開ける音がすると、「これはこれは、可愛いお嬢さんだね」と、老人の声が聞こえた。


「こちらは田之上(たのうえ)医師(いし)。この孤児院にたまに来る医者です」


「たまにとはなんだ。三日にいっぺんは来とるわ」藤木の紹介に田之上は文句をつけ、「どれ、見せてご覧」と透子に言った。


「え?」


当惑する透子に、「目を診てくれるそうですよ」と藤木が促す。


 目を? でも……。


「でも……これは、生まれつきのもので……どうやったって治せないと……」

「しかし聞いた話だと、双子の弟と触れているときは見えるのじゃろ? 『見る』という機能は働くということだ」

 まぶたをめくったり光をあてたりしているようだったが、「ふーむ」と言いながら診察が終わった。


「体は丈夫かね?」

「……はい、普通だと思います。大病をしたことはありません」

「なるほど、ちょっと失礼してもよいかな? 心臓の音だけ聞かせてくれ」

 言いながら、体に触れてきた。一瞬緊張したが、すぐに終わった。


「すまなかったね」

「どうですか、医師(せんせい)?」

 藤木が問うと、田之上は「可能性はゼロではないと思うよ」とあっさりと言った。


「えっ……、見えるかもしれないということですか?」

 思わず声を上げる。


「お嬢さんとこの主治医がなんと言っているかは知らんが、ワシはなんとかなると思う。しかしちゃんと調べんとな……。近い内に検査させてもらえんかね?」

「えっと……それは……」


 そんな大事なことを、自分で勝手に決めていいものか。


 躊躇っていると、藤木がそっと肩に手を置いてきた。


「急に言われても決心がつかないでしょう。医師(せんせい)、ちょっと考えて貰ったら」

「おお、そうだな」田之上は笑った。「いきなり初対面の医師にこんなこと言われても驚くわな。あんまり深く考えずに気楽な気持ちで受けてくれりゃぁいい。もしダメだった場合、失望させるのも忍びないしな」


 はい、と返事をしたものの、戸惑いが大きかった。今まで見えることはないと断言されていた。明と触れ合っているときに見える、という現象の方が異常だと言われていたのだ。なのに、急に可能性がある、などと……。


「あ、それとそちらの主治医の顔をつぶすことにもなりかねんから、まだこのことは誰にも言わんでくれよ」


 検査に使う血液を採取されたあと、部屋を出る寸前そう釘をさされ、頷いた。

本当に見えることなど……あるのだろうか……?

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