第14話

第14話

濡れた土を踏む足音。雨に混じる、覚えのある匂い。


「――藤木さんですか?」


 きっと今、目を丸くして驚いている。


「よくわかりましたね。驚きました」

 と言いながらも、おはようございます。と、挨拶は忘れない。


「あ、もしかして足音で誰か判別できるのですか?」

「まあ、……そんなところです」


 足音より匂いです、とは下品な気がして言えず、クスクスと笑いながら、言葉を濁す。


「すごいですね、一つの能力を失っている人は、他の能力で補うと聞いたことが……あっ、し、失礼しました」


 思慮を欠いた発言だと思ったのか、慌てて謝罪する。頭を下げた気配がした。


「大丈夫ですよ。気にしないでください」

「いえ、申し訳ありません。失言でした」


「ほんとに」やや強めに遮る。「謝ることじゃありません。それに私は見える時もあるのですから、恵まれているんです」


「あの、でも……」遠慮がちな声。「それって、却って見えなくなるときが辛くないですか?」


 虚を突かれた。


「見えるときと見えないときの貴女は全く違う。見えるときは朗らかで楽しそうなのに、見えなくなると途端に自信なさげになる。だから見えることが逆に辛いのでは、と思ったのです」


「辛いのは……」

明と離れるからだ。一緒にいる安心感がなくなる不安に襲われるから。当然暗闇の世界に戻らねばならない憂鬱さはもちろんあるが、もし目のことがなくても、明が傍にいなくなることの恐怖は変わらないだろう。


 どれだけ、自分は明に寄りかかっているのだろう。


「出過ぎたことを言っているのはよくわかっているのですが……。僕は貴女が、何もかもを諦めて、ずっとこの家に閉じこもっているのが心苦しいのです」


自分が暗い表情になるのがわかった。苛立ち、思わずキツい口調になる。


「出過ぎているとわかっているのなら……」

「すみません、でも貴女は聡明で美しい方だ。きっと外に出ても……」

「やめてください、無理です。父は私の存在を隠したがっているんですよ。目も見えない、無知で、子どもすら産めない。父にとって私など、何の価値もないんです。その上、外に出たいなどと言えるわけがありません。私は目立たないように、迷惑をかけないように息を殺しているしかないんです」


 一気にまくしたてると涙が滲んだ。


辛いのは、存在を認めて貰えないこと。同じ双子の片割れは愛され、期待され、優しい言葉をかけられているのに。


それでも諦められなかった。私にも目を向けて欲しかった。だから、だから――。


「……だから、入れ替わっているんです」


 私が明に、明が私に。そうすると、すれ違うときに父は私に話しかけてくれる。明に扮した、私に。天候のこと、学校のこと、友人のこと。そのときだけ、私を見てくれる。


 あのコソ泥が入った夜もそうだった。父と会話がしたいがために入れ替わっていたのだ。


「……外に、出ませんか」

 ぽつり、と藤木が言った。


 え? と聞き返すと急に腕をとられ、ドキリとする。


「ご予定は何もないでしょう? 一緒に来て貰えませんか」


 家庭教師も今日はもう来ない。昼食も済み、午後からは女中も使用人も私の行動に注意を払うことはない。明が帰ってくるまで。その明は、今日は何かの用事で遅くなる、と言っていた。


 今私が外出しても、誰も気付かない。


 出たい。外に。


 外の空気を感じてみたい。目が見えなくても、この肌で。


 いつも当然のように押さえていた欲求が藤木の言葉で急激に膨らんだ。はい、と思わず頷いていた。

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