第10話
第10話
「おはようございます」
明を見送り、部屋に戻る途中、背後から声をかけられた。すぐに藤木だとわかった。いいお天気ですね、と続いた言葉には、前回より親しみが込められた様子で、透子の胸を温かくした。
が、それは前方からの足音ですぐさま冷えた。
「朝早くからご苦労様」
父だ。
隣で藤木が幾分緊張した声色で挨拶した。
「捜査は難航しているようだね」
「申し訳ありません」
「君も大変だ、娘の警護より捜査本部に早く戻りたいだろうに」
「いえ、これも仕事ですから。全力を尽くします」
「まぁ頼んだよ。大事な娘だから」
「はっ」
会話の間中、透子はずっと下を向いていた。目が見えていないのだから、顔の向きなどどこだって同じはずなのに。
では、と行って父が通り過ぎ、気配が消えると思わずため息が漏れた。
「どうされました?」
藤木の存在を忘れていた。慌てて首を振って「いえ、なんでも」とごまかした。
「今日はいつもと雰囲気が違いますね」
「え?」
「柔らかい色合いの着物がよく似合ってます」
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
とてつもなく間抜けな、赤い顔をしているに違いない。
どう反応すればいいのかわからなくて、歩きながらそうですか、とそっけない返答になった。それを本気にしていないととったのか、「本当ですよ」と追いかけてくる。
「普段の濃い色の着物も、お嬢さんの色白さが際立って素敵でしたが、それ以上に……って、何言ってるんでしょう。すみません」
いきなり照れ出した。言われた方も大いに照れる。
「いえ……あまり褒められたことがないので……少し、吃驚してしまって。お上手ですね」
「上手じゃありません、本当のことです」
今、この人はどこを見ているのだろう。
今、この人は、どんな表情をしているのだろう……。
「――褒められたことがないなんて、嘘でしょう。伯爵令嬢ともあろうお方が」
「私は表には出ないので……。明はご覧のとおり堂々として人懐こいので大人にも評判がいいし、ああいう容姿ですから女性たちにも人気があるみたいですけど……」
「ちょっと待ってください」藤木が慌てて遮る。「容姿を言うなら貴女も一緒でしょう。同じ顔をしているのだから」
そうだ、同じ顔……。
「どう……でしょうか」しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いた。「顔の造りは同じかもしれませんが、全然違います。明の顔は綺麗だと思うけれど……鏡で見る自分の顔はとても……醜く見えます」
「そんなことはない。何故卑下するのです?」藤木は語気を強める。何故? ――わからない。だって、そうだと思うから……。
私が堂々とできるのは、楽しく笑えるのは、男になったときだけ。――明に、なったときだけ。
『髪は女の命なのに、なんだこの茶色い毛は。肌も青白くて幽霊みたいじゃないか。色素が薄いのにも程がある』
ずっと昔、父に言われた言葉。明の髪が茶色くても肌が白くても父は気にしない。男は業績が物を言うという考えだから。
『しかも盲目の上、子どもが産めない体ときてる。性別は女なのに。では一体、何の役に立つんだ?』
もともと男の双生児で生まれるはずだったのが、間違えて男女で生まれてきてしまったので、透子は性染色体を持たない。だからどこかの家と婚姻関係を結ぶことすらできない。
つまり、私はこの家にいるだけ。目も見えず、一日一日をやり過ごすだけ。
男のままで生まれていれば――父はもっと私を見てくれただろうか? 明と二人で後継者として、父の役に立てたはずなのに――。
「――伯爵と、うまくいっていないのですね」
肩がぴくり、と跳ねた。
「先ほどの伯爵の態度……『大事な娘』と仰った割に、一度も貴女の方を見なかった」
そう、父は見ない。私など存在していないかのように。
「だから家庭教師の数を増やすのを、伯爵にお願いできないのですね」
そう、家庭教師が来てくれるようになったのも、日がなぼんやりして過ごしている私を不憫に思った明が、父に頼んでくれたから。勉強したい、と言ったことはなかったのに、明はわかってくれていた。父は明の頼みごとなら聞いてくれる。優秀な後継ぎだから。
国語や数学、外国語などは必要ないと言われて無理だったけれど。でもそれでも嬉しかった。これ以上、我儘は言えない……。
「……透明の人間なんです、私は」
私を見ない父。存在を隠したいから、明に双子の姉がいることさえ、世間では知られていない。知られても、病弱だということにされて外の人と会うことなど不可能に近い。
――透明な心で物事を見る人間になって欲しいと願ったの。だから一文字ずつとって、『透子』と『明』なのよ。
幼い頃亡くなった母が、名前の由来を教えてくれた。
――身分や爵位、職業だけで人を決めつけない人間になって欲しい。明は耳が聞こえないし、透子は目が見えないけれど、心を透明にしていればきっと、何が嘘で何が本当か、感じることができるようになるわ。
感じる? と幼い透子と明は首を傾げる。
ちょっと難しかったわね、と笑って母の話は終わった。よくわからなかったが、なんとなく透子の心に残っていた。いつか、母が望んでくれたような人間になりたいと思っている。
けれど今の私は、ただの透明人間に過ぎない。
「透明なんかじゃありませんよ」藤木が真剣な口調で言った。「僕には見えています。ただ、貴女はほんの少し自信がないだけです。それが顔に表れてしまっているから、明さまと同じ顔でも全然違うと感じるのでしょう。でも……とても、お綺麗ですよ」
これほどの賛辞を聞いたことがない。
今まで明だけが、自分を認めてくれていた。可愛いとか大好きだよとか、双子の弟だけが自分を見て、欲しい言葉をくれた。それで十分だった。他から期待したことなどなかった。
けれど――。
それなら何故、今泣きそうになっているのだろう。本当は欲しかったのだろうか。全くの他人から、自分という存在を、認めてくれる言葉を。
ありがとうございます、と言うつもりだったのに、恥ずかしくて口から出た言葉は「お喋りなんですね」だった。我ながら可愛くない。
「えっ、そうですか? 警部にはその無口をなんとかしろと怒られるくらいで……どうも、貴女といると調子が狂う」
向こうも照れた様子で、それが同じ時間を過ごしているのだなぁと実感でき、何故だか幸せな気分になれた。
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