in the bus and bath

 前々から準備だけは進めていた。二種類の洗剤はもう買ってバスの中にある。シャボン液はそれで作った。

 別に死にたかったわけじゃない。それを言えば前の方がよっぽど死にたいと思っていた、たぶん。その頃に比べれば、今はかなり幸せだと思う。

 ただ、どうすればいいか分からないだけで。

 密閉されたバスでバケツの中に一つ目の洗剤を注ぎ洗剤の匂いが広がった。バケツの水面を覗いてもボクの顔は映らない。これから死のうとしているのに、なぜか他人事みたいだった。何か足りないような感じで。

 自分の足を見て、なんとなく思った。これからバスの床に敷いたブルーシートに横になるのに靴を履いていた。家の中で靴を履いて寝る人がいないように、死ぬときには靴を脱ぐことが自然なことだと感じた。一緒に靴下も脱いだら、月の明かりが長く伸びた足の爪を照らしていて、少し実感が湧いた。

 早く終わらせてしまいたくて、震えた呼吸のまま二種類目の洗剤を混ぜる。

 見るかに危なそうな真っ黄色な泡が立ってすぐ、目も喉も頭も、痒くなって痛くなって気持ち悪くて熱いのか冷たいのかも分からなくて──思っていたのと違う。

 苦しくて、のたうち回って、自分がどうなっているのか分からなくて、頭をブルーシート越しの床にこすりつけて、手に持っていたものを引きちぎる。涙も声も絞られるように溢れる。今すぐ終わってくれるならなんだってしたかった。

 

 衝撃。

 バスが横殴りされたような揺れと聞いたこともないような音。

 何が起きたかなんて考える間もなく、ただ這って空気の流れる方へ向かう。

 バスにはなぜか穴ができていた。

 バスの外、地面の砂利で顔を洗ってしまいたくなる中、ぼやけた視界で二つの人影があることだけがかろうじて分かった。一つはバスに寄り掛かるようにして動かない、もう一つはそれに向き合っていた。

 一つの人影が近づいてしばらく傍に立っていたかと思うと顔に何かを掛けられて、それがうっすらと柔らかく顔を包んだ──強烈な石鹸の匂い。

 不思議と徐々に痛みが引いて、輪郭から近づいてきた人影が女の人だと分かった。

 もう一つの人影は塊のように動かなかったけど、大きさからたぶん男の人だった。それが。ぐしゃりと上半分が地面へ倒れこちらを向いた。

 強烈な石鹸の匂いの元はこれだった。

 気を失う直前に見たそれ──顔が石鹸のようになってドロドロに溶けてのぞいた頭蓋骨は、偽物には見えなかった。

 卵型の入浴剤を思い出した。あそこでの記憶。バスルームにあった品々。その中の一つ、入浴剤から飛び出るおもちゃ。

 体の中に吐き出せる物が残っていたら吐いていた。ぐるぐると頭の中であそこでの記憶がよみがえる。

 あそこでの記憶。バスルームでがしたこと。


  ◆


 僕は、どうすればよかったの?

 生まれて初めて自分以外の体を洗ったあの日、あの子の体を洗ったあのとき、バスルームの椅子に腰かけて力の抜けきった小さな体をこの手で支えたあの瞬間。

 僕は、どうすればよかったの? 

 手のひらには最低の人生を受け入れることでしか生きられないと知った諦めが伝わってきて、シャワーに打たれて「あったかい」と言葉をこぼしたあの子の体を洗う以外に、僕に何ができたっていうの。

 この手に体重をあずけたあの子のように、僕は何もかも受け入れるしかできなかった。あの子たちが"パパ"の待つ場所に自分の体以外何一つ持たずに向かうために最初に体を洗った。事が終えた後にあの子たちがバスタブの中で溺れたり、シャワーのホースで首を絞めたりシャンプーのノズルに目を突っ込んだりしまわないよう、注意しながら体を洗った。

 汗も涙もいろいろなものを流しはした、何度も何度も。確かにみんな排水溝へと流れていった。だけど一度だってきれいにできたことなんてなかった僕に。

 僕に、何ができたの。

 ふわふわと飛んだシャボン玉と笑い声。

「どうしてそんな顔してるの?」

 忘れることのできない声。

「パパは私の体を触るとき、とてもうれしそうに触るのに。あなたはどうしてそんな顔してるの?」

 大きなシャボン玉が飛んでいた。そのがボディソープで作ったシャボンには、逆さに歪んだ僕の顔が映っていた。僕はいったいどんな顔をしてあのに触れていたんだろう。

 バスルームに響く笑い声。

 まるで顔をなくした"のっぺらぼう"みたいに、僕は僕の顔を思い出せない。

 僕の良心はとっくの昔に壊れていたんだ。

 バスルームに鏡はなくて、鏡張りになった壁の外側から室内をすべて見られていた。

 僕があそこでしていたことは、それだけだ。

 僕は"パパ"に触られていない。触っていたのは僕の方だ。僕よりも少し小さい子たちを。僕よりも弱い子たちを。

 僕はそれをただ、鏡の向こう側から見られていた。

「なんで」と言葉をこぼす子を洗いながら、心の底で湧くという思いもまとめて見透かされていた。

 怖ろしかった。

 シャボン玉──割ったのは僕じゃないとしても、割れると知って吹いたのは僕だ。

 僕は、どうすればよかったの?


  ◆

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