5.フィーアの女神


 フェスティバル当日


 ホテルの屋上は色とりどりのライト、料理、そして人で溢れていた。この歴史的瞬間に立ち会える興奮と、誰かが犠牲となるそのスリルに異様な雰囲気が辺りを包んでいた。毎年夜十一時頃に女神は現れる。もちろんそれに合わせてパーティーは催されるのだ。屋上はドーム型になっており、外界とは遮断されている。天井と側面は特殊な硝子で出来ており、屈折率ほぼゼロで外を眺めることができた。もちろんフィーアの女神もだ。

 セイラは黒いパーティードレスに身を包み、クライドも今日は正装していた。厨房で料理を作り続けていたコックたちも屋上に集まる。ホテル中の全ての人間がこの場所に集結した。

「セイラ!」

 ジュリアンが人ごみの中から現れる。彼もまた、正装している。

「そろそろ時間だよ、二人ともドリンクは持ってるね?」

「ええ」

 そう言って右手に持ったグラスを見せる。オレンジ色のジュースに赤い綺麗な花が挿してあった。

「クライド……酒じゃないの?」

「ええ。こんな場所ですし」

 こんな場所だから酔っては困るといった意味なのだろうか。むしろこんな時だからこそアルコールを摂るのでは? 周りには心の奥底では不安な酔っ払いが溢れているというのに。思わず自分の手元を見る。皆赤い花は同じだ。パンフレットにもあったもので、女神を望みながら皆で乾杯をする。そんな趣向らしい。

「ダイアナさんは?」

 気にしているのだろうか、今日は黒いドレスということもあり白い肌がなお引き立って見える。そして赤い唇。少しだけ見とれて、慌てて余所を向いた。

「さあ、さっきまでは一緒にいたんだが。ああ。あそこだ。キーラと一緒だね。昨日あの後二人は意気投合したみたいだよ」

 緑と白のグラスを持ったダイアナが、その一方を彼女に渡していた。すでにだいぶ飲んでいるらしく、二人とも頬が赤い。

 そちらに気を取られていると、設えられたステージの方に、コーウェン氏が上がっていた。

「皆様、ようこそフィーアホテルに。お手元に飲み物はおありでしょうか? もう一分ほどで毎年のその時間です。それでは……フィーアの女神を拝することのできる幸運に乾杯」

 彼の言葉と共に手元の赤い花が燃え上がった。

 セイラは驚いてグラスを落としそうになる。横からクライドの手が伸びてこなければドレスを汚していたことだろう。ジュリアンはその様子を見て笑う。

「魔導だよ。これもあちらの趣向。ほら、ジュースの色が変わっているだろう?」

 見ると先ほどまではオレンジ色だったのが、薄いピンク色になっている。

「さ、乾杯だ」

 グラスを自分の前で軽く揺らして彼は一気にそれを煽った。セイラも真似をして飲み干す。甘すぎず、酸っぱすぎず。口の中に爽やかな果実の風味が広がった。

 皆、同じように乾杯をする。客はもちろん、ウエイトレスやシェフまでも。

 そして、それは現れた。


 初めて訪れた時と同じく、彼の女神は水晶のように美しく、輝き、微笑んだ。

 両の手が動くごとにその色を変え、七色に光る。

 長い髪の毛はうねり広がる。

 左手で、ホテルの屋上を、人々をさらりと撫で、風が舞う。

 硬いような、柔らかいような、不思議な質感の女神はお決まりのポーズをとった。

 口をすぼめ、まるで人の魂を吸い取るかのように。


 そうして、また消える。


 完全に姿が失せると、そこら中から溜息が漏れた。

 今のその感動を、奥に押し込んでいた叫びを吐き出すかのように。

 ほんの五分程度のそのショウは人々の心に深く刻み込まれる。

 いつもは軽い口調で笑みを絶やさないジュリアンも、この時ばかりは本当に真顔でしばらくぼーっと宙を眺めていた。手元のグラスを落とさないのが不思議なくらい、体中の力が抜けて、自分の洋服の裾を握り締めるセイラがいることにも、しばらく気付かなかった。

「セイラお嬢様?」

 クライドの声で我に返る。彼女もパッ、と手を離した。

 そのタイミングは皆が自分を取り戻す瞬間だったのだろう。

 ワンテンポ遅れて、叫び声が辺りに広まる。

 女神が現れたということは、死人が出るということ。

 その因果関係に気付いてその悲鳴の先にあるものの姿を予想しながら、三人は振り返った。

「ダイアナっ!」

 ジュリアンが走り出す。

「キーラ!!」

 倒れた女性が二人。

 そう、フィーアの女神は一人だけでは飽き足らず、あろう事か二人をも連れ去ったのだ。


 どこから湧いて出たのか、警察があっという間にホテル屋上を制覇した。彼らがどこから来たのかを知っているのはホテル側の人間と、セイラ、ジュリアンだけである。客は皆少し離れたところからその姿を眺めていた。まだこの事態に頭がついて行かぬのだろう。

現場を仕切っている警官が多分ハウベルの言っていた警部のようで、なかなか命令する仕種が様になっている。太い眉に鋭い眼光。いわゆる強面こわもてだ。

「えー皆さん、申し訳ないですがボディチェックをさせていただきます。女性の警官もいますのでご安心を」

 毎年同じ事を繰り返しているのだろう。文句を言う客をなだめすかし順番にチェックしていく。一人にかかる時間は五分程度。パートナーであるジュリアン、キーラと一緒にいた男性ユーリーはだいぶ時間をかけられた。

「ビュッセ警部、これは……」

 何かただならぬ様子のハウベルがいた。

「キーラ様も、ダイアナも例の死に方じゃなかったんですか?」

 ジュリアンが今は布を掛けられた二人の方をチラリと見て尋ねた。どうも先ほどのボディチェックが念入りで、毎年行っていると言ってはいるが何かを探している風さえ見えたからだ。

 そんな質問に、ビュッセはじろりと睨みを利かせただけだった。しかし、その程度で引き下がる彼ではない。

「何時になったら開放してくれるんですか? 夜更かしはお肌に悪い」

 軽口を叩く男に再度、ビュッセ警部は鋭い視線を投げかけ、溜息をついた。

「ダイアナさん、彼女の方は例の死に方。特に目立った点もありません。フィーアの女神にやられたのでしょう。だが、アニェイシャ公国のお姫様、キーラ嬢の方は違う。毒殺ですね。完全に、殺人です」

 辺りから小さな悲鳴があがる。

 ジュリアンは舌打ちをした。フィーアの女神によって天に召されるなら良くて、毒殺になると俄然皆騒ぎ出す。

 いずれ分る事とは言えども、タイミングを間違ったかもしれないとビュッセはまた溜息をつこうとした。が――。

「貴方が犯人? それとも貴方? この際そちらの貴方でもよいわ」

 人形のように愛らしいかたちをした少女の口から漏れた言葉に、周囲の人間は度肝を抜かれた。上品な仕立ての裾が膨らんだドレスに身を包んだ彼女は順番に周囲の人間を見る。黒髪に透けるような白い肌。紫色の瞳と赤い唇。

「私はもうフィーアの女神を見たわ。この島に用はない。早く帰りたいの」

 大人のように肩をすくめる仕種が酷く似合っていた。しかし、彼女はまだ十三歳。

「もうね、私へとへと。眠くて堪らないし次の予定もあるのよ。……仕方ないわね。いいわ、こうしましょう」

 皆に見えるように白い手袋で包まれた細い指を一本前に出した。

「犯人って名乗り出た人には百億ヴィラあげる」

 百億ヴィラ。凡人が一生遊んで暮らしても使い切れないような金額だ。思わず手を挙げようとしたハウベルをビュッセ警部は思いっきり殴り飛ばした。

「この嬢ちゃんの保護者は誰なんだっ!」

 怒号が辺りを震わす。

「ほら、ここで名乗り出て、ひとまず場を収めて後でやっぱり違うって言えばいいのよ!」

「あー、セイラ?」

 ジュリアンが腹を押さえて苦しそうに言う。

「そうか、ってことは私が名乗り出て、島を出てからやっぱり違うって言えばいいのかしら?」

「お嬢様、そこら辺でやめておいた方が」

 クライドも苦笑して彼女の側に立つ。

「お、お前がこの小娘の保護者か! もういい、捕まえてとっとと部屋に連れて行けっ!」

「まぁ! 小娘ですって!? 失礼なおじさまねっ!」

「どう見たって小娘だろうが。状況が分ってないただの小娘だっ!」

「私にはちゃんとセイラ・オブライエンと言う名前があるのよ。小娘って言うのは止めてよ。失礼だわ」

 彼女が名乗りを上げた瞬間、辺りが少しざわついた。皆、百億ヴィラをぽんと払えるオブライエンに心当たりがあったからだ。もちろん、ビュッセにもだ。

「オ、オブライエン?」

「そうよ、人の名前を一度で覚えられないの? 貴方の方がよほど阿呆ね」

「年上に向かって阿呆だとぉ」

 ビュッセの顔が歪む。慌ててハウベルが止めた。

「聞いたでしょう? 警部! 彼女はオブライエン将軍の孫娘ですよ」


 この世界には一つの大国が君臨していた。ガードラント王国。あらゆる場所に強い影響を及ぼす国。小競り合いを繰り返す各国と違い、自分の領土より外へ向かって何をするでもなく、ただ強くあるがために事あるごとに持ち出される国。その柱に泣く子も黙ると言われる将軍がいた。リチャード・オブライエン。その名を知らぬ者はいない。


「そ、そーれがどうしたってんだ!」

 ビュッセの一言でクライドとセイラは部屋に戻された。

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