第14話・初体験

「ただいまー!」


 明日香ツンデレ事件が片付いた日の夕方。

 リビングでテレビを見ていた俺の耳に、帰宅した明日香の元気な声が聞こえてきた。俺はその声を聞いてふと部屋の壁掛け時計を見ると、時計の針はもう十七時を指し示している。

 もうこんな時間かと思いながらソファーから立ち上がり、俺は夕飯の話をしようと玄関の方へと歩いて行く。


「お帰り明日香――って、あれっ? 由梨ゆりちゃん」

「こ、こんにちは、お兄さん。今日はお世話になります」


 緩いウェーブのかかった黒のロングヘアーをした由梨ちゃんが、ペコリと頭を下げて丁寧に挨拶をする。

 それにしても、――とは、いったい何の事だろうか。


「由梨ちゃん。ちょっと待っててね?」

「う、うん」


 明日香はそう言って緊張気味の由梨ちゃんを玄関に残して家に上がると、そのまま俺の手を引っ張ってリビングへと向かった。


「なあ、明日香。由梨ちゃんが言ってた『お世話になります』って、何の事だ?」

「あのね、お兄ちゃん。今日、由梨ちゃんを泊めてもいいかな?」


 明日香はなぜかは分からないけど、小声でそんな事を聞いてきた。


「由梨ちゃんを? どうしたんだ急に?」


 そんな明日香に釣られ、俺もつい小声でそう聞き返してしまう。


「由梨ちゃんね、お兄ちゃんと喧嘩しちゃったんだって……」


 とりあえずどういう事なのか話を聞いてみると、明日香が由梨ちゃんの家へ遊びに行った時には既に拓海たくみさんと喧嘩をしたあとだったらしく、明日香はそのまま由梨ちゃんに手を引かれて向かった公園で一緒に遊んでいたらしい。

 しかしいつもの帰る時間になっても由梨ちゃんが家に帰りたがらないので、困った明日香はそのまま由梨ちゃんを我が家に連れて来たとの事だった。

 喧嘩の理由については明日香も聞いてみたらしいんだけど、由梨ちゃんがそれを話したがらないらしく、その原因は明日香にも分からないらしい。

 まあ、どこにでもある兄妹喧嘩だとは思うけど、あの温和な拓海さんと喧嘩になるというのが驚きだ。


「うーん……まあとりあえず、由梨ちゃんに上がってもらおうか。いつまでも待たせたら悪いし」

「うん」


 俺はそのままリビングのソファーに座り、明日香は由梨ちゃんを玄関へ迎えに行った。


「すみません。お邪魔します」

「待たせちゃってごめんね、由梨ちゃん。狭いところだけど、ゆっくりしていってね」

「は、はい。ありがとうございます」


 由梨ちゃんと会うのはこれが初めてじゃないけど、かなり緊張している様子だった。


「明日香。お兄ちゃんちょっと部屋に行くから、由梨ちゃんをしっかりともてなしてあげてな」

「うん!」


 由梨ちゃんを明日香に任せて部屋に戻り、机の上に置きっぱなしにしていた携帯を手に取って画面のロックを解除した。

 すると二件の着信が来ていて、その二件ともが拓海さんからのものだった。

 俺はつい先日、プールで知り合った時に拓海さんと連絡先を交換していたんだが、それが早速役に立ちそうだ。

 着信履歴から電話番号を表示し、拓海さんへと電話をかける。するとプルルルルッ――と三回ほどコール音が鳴ったあと、拓海さんが電話口に出た。


「あっ、涼太君! 良かった……電話したけど出ないから、どうしようかと思っていたところだったよ」

「すいません、拓海さん。携帯を部屋に置きっぱなしにしてたもので」

「そうだったんだね。あっ、そうだ! 早速で悪いんだけど、聞きたい事があるんだよ」

「由梨ちゃんの事ですか?」

由梨はそっちに行ってるのかい!?」


 やっぱり――って事は、拓海さんもなんとなくこちらに来ているとは思っていたみたいだ。


「はい、来てますよ。それで今日、うちに泊めてほしいらしいんですが、どうしますか?」

「そっか……由梨のやつ、まだ怒ってるんだな……」

「いったい何があったんですか?」


 俺はお節介とは思いながらも、拓海さんに喧嘩の原因を聞いてみた。とりあえず原因くらいは分かってないと、下手な発言をして地雷を踏みかねないし、場合によっては俺が二人の喧嘩の仲裁をできるかもしれないと思ったから。

 そしてその質問に対し、拓海さんは少し恥ずかしそうにしながら朝の喧嘩の経緯いきさつを話し始めた。


「――なるほど。そういう事だったんですか」


 拓海さんから喧嘩の原因を聞いた俺は、どうしたものかと眉間にシワを寄せた。


「涼太君。迷惑だとは思うけど、良かったら今日は由梨を預かってくれないかな? 今はその方が良さそうだから」

「分かりました。拓海さんがそう言うなら、今日は我が家でお預かりしますね」

「ごめんね、涼太君。迷惑をかけて」

「いえ。明日香も友達のお泊まりは初めてですし、由梨ちゃんにとってもいい経験になるかもしれませんから」

「ありがとう。由梨をよろしく頼みます」


 丁寧に由梨ちゃんの事を頼まれたあとに電話を切り、俺はリビングへと下りて行った。

 理由はどうあれ、明日香にとっても由梨ちゃんにとっても初めての体験だ。楽しい思い出になる様にしてあげたいと思う。


「ごめんね、由梨ちゃん。せっかく来てくれたのに席を外してて」

「あっ、いえ、そんな事はないです。気にしないで下さい」


 ぎこちない笑顔を浮かべながらそう答える由梨ちゃん。

 どうやらまずは、俺に慣れてもらう事から始めないといけないみたいだ。


「由梨ちゃん。俺達これから夕飯の買い物に行くんだけど、一緒に行かないかな?」

「えっ? でも、お邪魔になりませんか?」

「大丈夫だよ、由梨ちゃん。一緒に行こうよ!」


 にこやかな笑顔で由梨ちゃんの手を握る明日香。

 そんな明日香の行動に、困惑していた由梨ちゃんの表情が和らいでいく。


「う、うん。それじゃあ、一緒に行くね」「やった♪」

「よし。それじゃあ行こうか。由梨ちゃん」

「はい!」


 こうして俺は元気に返事をする由梨ちゃんと、にこやかな笑顔を見せる明日香を連れてスーパーへと向かい始めた。

 そして俺が先頭、その後ろに明日香と由梨ちゃんがついて来る形で歩きながら、俺は由梨ちゃんという人物を知ろうと話し掛けていた。

 そんな俺に対し、由梨ちゃんはたどたどしくもしっかりと答えてくれる。なんだかそんな由梨ちゃんを見ていると、ちょっと前の明日香の事を思い出す。

 俺は少し前に感じていた懐かしい感覚を思い出し、表情を綻ばせていた。


「むう……」


 しかしそうやって由梨ちゃんと話をしていると、明日香が隣に来てむくれた表情で俺の服を掴んできた。


「ん? どうかしたか? 明日香」


 視線を明日香に向けてそう尋ねると、明日香は『なんでもない』と言って掴んでいた服から手を離した。

 そして家を出てから十五分くらいでスーパーへ着いた俺達は、夕食を何にしようかと迷いながら商品を見て回っていた。


「由梨ちゃん。何か食べたい物はあるかな?」

「えっ? 私ですか?」

「お兄ちゃんは料理上手だから、なんでも作ってくれるよ♪」


 自慢げにそう語る明日香に気恥ずかしさも感じるが、同時に嬉しくもある。


「ははっ。まあ、なんでも作れるかは分からないけど、とりあえずリクエストがあったら言ってみて」


 その言葉に由梨ちゃんは、『うーん』と唸りながら悩んでいる。

 そして由梨ちゃんは少し悩んだあと、何かを思い立ったかの様にして顔を上げた。


「あの、ハンバーグを作って欲しいです。大丈夫でしょうか?」

「ハンバーグか。いいよ。それじゃあ、ハンバーグにしよっか」

「ありがとうございます」

「お兄ちゃんの作るハンバーグ、すっごく美味しいんだよ!」


 明日香の俺を絶賛する言葉は嬉しいけど、それでハードルが上がったから失敗はできない。


 ――仕方ない。とりあえず全力で頑張るか!


「よしっ! それじゃあみんなでハンバーグの材料を取りに行くぞー!」

「おーうっ!」

「お、おーう」


 作る物が決まればあとは早い。

 俺達は目的であるハンバーグの材料を取りに各場所を回った。そしてそれからほどなくして材料を集め終わった俺達は、会計を済ませてスーパーを出た。

 そして外へ出たところで持っている携帯の時間を見ると、既に十八時半を過ぎていた。普通なら遅く感じる時間だけど、夏場はこの時間でも外は明るいのでそんな印象を受けない。


「お兄さん。私、何か荷物を持ちます」

「そう? それじゃあ、これをお願いしようかな」

「はい」


 あまり重い物は渡せないので、俺は由梨ちゃんに玉ねぎと人参が入った袋を手渡した。


「ありがとう。由梨ちゃん」

「あっ……」


 袋を手渡したあと、俺はつい、明日香に接する時の癖で由梨ちゃんの頭を撫でてしまった。


「お、お兄ちゃん! 私も何か持つよ!」

「えっ? あ、ああ。それじゃあ明日香にはこれを持ってもらおうかな」


 突然大きな声でそう言ってきた明日香に少々驚きながらも、俺は牛乳とパン粉が入った袋を手渡した。


「さて、帰ろうか」

「えっ!? うん……」


 荷物を手渡してそう言うと、なぜか明日香はしゅんとして俯いてしまった。

 そんな明日香の様子を見てちょっと変だなとは思ったけど、この時の俺にはその原因が何かは分からなかった。


× × × ×


 自宅へと帰ってからすぐ、俺は夕飯の準備を進めていた。そしてそんな俺の隣では、まな板と包丁を用意してたまねぎを切ろうとしている由梨ちゃんの姿がある。

 本当は俺が調理をする間、明日香と由梨ちゃんには小雪と遊んでもらったりしながらくつろいでもらおうと思っていたけど、調理道具を用意している最中に由梨ちゃんが、『私にハンバーグの作り方を教えて下さい』とお願いをしてきた。

 そんな由梨ちゃんに対して料理を教わりたい理由を聞いてみると、由梨ちゃんは少し顔を紅くしながら、『兄さんが好きなんです。ハンバーグ』と答えた。

 最初はその申し出に驚きもしたけど、理由が理由なだけに、俺はそれを受け入れた。


「そうそう! そんな感じだよ、由梨ちゃん。上手上手!」

「はい!」


 俺の教えたとおりに、由梨ちゃんはまな板の上の玉ねぎに切れ込みを入れていく。

 なんでも由梨ちゃんは料理自体が初めての挑戦らしく、俺は道具の使い方から材料の切り方までを丁寧に教えていた。


「お、お兄さん。なんでこんなに涙が出てくるんですか?」

「玉ねぎを切ってると、こうして涙が出ちゃうんだよ」

「そ、そうなんですね」


 涙を浮かべながら必死で玉ねぎに切れ込みを入れる由梨ちゃん。料理初心者には辛いかもしれないけど、これをしないとハンバーグは作れない。


「ううっ」


 それでも玉ねぎが相当目にみるらしく、由梨ちゃんは包丁をまな板の上に置いてから両手で目を押さえてしまった。

 はたで見ている俺でもかなり目にきているんだから、目の前で切っている由梨ちゃんはもっとキツイだろう。


「よし。それじゃあ、ちょっと休憩したあとに裏技を使おっか」

「裏技ですか?」


 由梨ちゃんは両目を押さえたままで顔を上げ、俺の方を向く。


「うん。ちょっと待っててね」


 俺はこんな時の為にと準備をしておいた物を冷蔵庫へ取りに行った。

 そして由梨ちゃんの目がある程度回復するまで待ったあと、再び玉ねぎ切りの作業を再開した。


「あっ、本当にさっきより目に沁みなくなりました」

「でしょ?」

「はい! 凄いです!」


 俺は由梨ちゃんが包丁で玉ねぎに切れ込みを入れる度に、横から霧吹きの水をかけていた。

 玉ねぎの目に沁みる成分は気化しやすく、水に溶けやすいという性質がある。だから玉ねぎを切る度に横から霧吹きをしてやると、そんなに目に沁みる事なく作業ができるわけだ。


「よし。それじゃあ次は、それをみじん切りにしようか。最初にお手本を見せるから、あとから同じ様にやってみてね」

「はい。よろしくお願いします」


 由梨ちゃんは俺の手元へ視線を向け、真剣な表情でそこを見ている。そんな様子から、由梨ちゃんの上手にハンバーグを作りたいという真剣さが伝わって来ていた。

 そして俺はそんな由梨ちゃんの熱意と想いに応えたいと思い、真剣に作り方を教え、由梨ちゃんと一緒にせっせとハンバーグ作りにいそしんだ。

 こうして由梨ちゃんとのハンバーグ作りが順調に進み、終盤へと差し掛かった頃。

 明日香にお皿を用意してもらおうとリビングと台所を繋ぐ出入口に目を向けた時、その出入口からこちらをうかがう様にして覗き込んでいる明日香と視線が合った。


「どうしたんだ? 明日香。そんな所で」

「あっ、ううん……なんでもないよ」

「そうか? まあ、ちょうど良かった。明日香、みんなの分の食器を用意してくれないか?」

「うん。分かった」


 俺のお願いに素直に食器を用意し始める明日香だが、なんとなく元気が無い様に見える。


「明日香。どうかしたか? なんだか元気無いみたいだけど」

「えっ!? そ、そうかな? そんな事は無いと思うよ?」


 無理矢理に作った様な笑顔を浮かべ、いそいそと誤魔化す様に食器を用意していく。

 そんな明日香の様子が変だとは思っていたけど、時間も遅いので俺は料理の仕上げを優先し、間も無く出来上がった料理を前に三人と一匹で少し遅めの晩御飯タイムを開始した。


「味はどうかな? 明日香ちゃん」

「――うん! 凄く美味しいよ! 由梨ちゃん」

「本当? 良かった……」


 自分が作った料理を美味しいと言ってもらえるのは、作り手にはとても嬉しい事だ。しかもそれが初めての料理なら、尚更嬉しいだろう。


「うん。確かに美味しいよ。初めてでこれだけできれば十分だね」

「ありがとうございます。お兄さんが丁寧に教えてくれたおかげです」

「いやいや。由梨ちゃんが真剣にやった結果だよ」

「お兄さん。優しいですね」

「そうかな?」


 柔らかい笑みを浮かべながらそんな事を言う由梨ちゃんを前に、俺は少し照れてしまった。そしてその時、ふと視界に入った明日香の表情は、なぜか寂しげだったのを覚えている。

 こうして俺達が食事を終えた頃には二十時を過ぎていて、三人で片付けをしたあと、明日香と由梨ちゃんには先にお風呂に入ってもらった。

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