5-2
夢を見ていた。それは初めて見た夢だった。とても深い眠りから、当然のように目を覚ますと、霧が晴れて行くかのように夢の内容を忘れてしまったが、その夢は今日と言う朝に相応しいものであったような気がする。
今日は別れの日。卒業式と閉校式が執り行われる日。
別れの日に相応しい夢は朝日にかき消される星のように僕の中から消え去ったが、それでも確かに僕の中にはしっかりと残っている。
三月四日。冬と春の境界。輪郭をぼかすような時期。小学生や中学生、高校生だとか大学生、そういった若者が肩書を失う月。そう考えると、なんだかその人自身をはっきりと浮かび上がらせてくれるようで、それは不安定ながらも正しい姿であるような気がしてくる。
卒業式は肩書を捨てて僕になる儀式のようなもので、だからあらゆるものに別れの言葉を伝え、花束を抱えるのかもしれない。
カーテンを開けるとすっかり昇った太陽が空を青青とさせていて、窓ガラスを開けると空気はどこまでも澄んでいた。別れの日に相応しい、どこか寂しさを携えた朝だった。
朝食を済ませ、両親と今日の話をして、顔を洗ったりして、そうして着替え始める。黒と白のスーツとワイシャツ。もう何か月も着ていなかったそれを身に纏って、机の上にある一通の手紙を持ち、そうして学校へと向かった。
卒業式が午前中、閉校式が午後に行われる。午前中、僕は卒業式に出ることはせず音楽室で午後に向けた準備をする予定だ。
十年前の今日、同じくらいの時間。僕はこんな風に海沿いを歩いて卒業式へと向かったのだ。その時はスーツではなく学生服を着ていたのだが、それでも過去の同じ日、同じ時間に歩いて向かった場所に、今歩いて向かっているというのが不思議に思える。
この町に帰って来て、僕は色々なことを思い出した。思い出したくないこと、忘れたままでいたかったことを含め、僕は思い出した。
僕が初めてピアノと出会った時のことを、僕は祖母の死を通し思い出した。それは僕がまだ走るだけで笑うことが出来ていた時の話だ。
放課後、僕はいつものように彼女と一緒に祖母の家へ遊びに行った時、偶然僕は祖母の家でピアノを目にした。僕がピアノを始めるきっかけになったのは、どうしたって祖母の存在がある。祖母の家にあったピアノと出会い、祖母の弾くキラキラ星を耳にしたから、僕はその時ピアノを弾きたいと心の底から強く願った。
僕も祖母の弾くピアノのような暖かい音を奏でてみたいと、幼かった時の僕が実際に思ったのかは分からないが、今振り返ってみるにそういうことだったのだと思う。
僕はいつしかそのことを忘れてしまったのだ。いつしかピアノを弾くことが重要で、ピアノを弾くことしか僕に価値はなく、ピアノが好きでなければならないとそう思うようになってしまった。
どうしてそう思うようになってしまったのか。その明確な理由なんてものなど僕は分からない。祖母が病から僕のことを忘れてしまったからなのか。ずっと一緒にいられると思っていた鳴海や彼女がとても遠くへ行ってしまうと感じてしまったからなのか。
ただ確かなことは、僕はそれこそ沼にでも落ちて行くかのようにあの黒と白の鍵盤にのめり込んで行ったということだろう。のめり込んで、それしか見えなくなって、気が付いた時には暗い海の底に沈んでいて、取り返しのつかないところまで落ちてしまっていた。
だからこそ、今になって時折思ってしまう。もしもあの時、僕がピアノと出会わなければどうなっていただろう。もしも祖母の家にピアノがなかったらどうなっていただろうと。
仮に祖母の家でピアノを見つけずに、見つけたとしても祖母がキラキラ星を弾いてくれなかったとしたらどうだろう。
もしかしたら、僕がピアノを弾くことはなかったのかもしれない。それくらい祖母の弾いてくれたあのキラキラ星が優しい衝撃を僕の心に与えてくれた。
その曲を、僕は今日弾くのだ。もう思い出となってしまった、二度と聞くことのない祖母の曲を僕は別れの曲として弾く。
そうしてもう一曲。十年前の僕が弾くことの出来なかった曲。彼女と鳴海のためだけに作った曲を弾く。
公私混同も甚だしい。傍から見れば自己満足のために閉校式という舞台を利用している様に見えるかもしれない。でも、少しくらい我儘になってもいいのではないのかと、僕はそう思う。
もう少し我儘に。感情のままに、思うがままに。それくらいがちょうどいいのではないのだろうか。嫌いなものは嫌い。好きなものは好き。愛せないものは愛せない。愛せるものは愛せる。そうして、嫌いなものを嫌いなまま、それでも好きであると言い切ってみたい。
別れの日に相応しい曲を。これが本当に最後の曲になるかもしれない。
耳に伝わる海の音には、一匙の寂しさが溶け込んでいた。
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